綱成は、敵のうしろへ廻らむとの奇策をすゝむ。氏康、大いに喜び、氏政をさし副へぬ。松田もその中に在り。この一軍、上流の迦羅鳴起の渡をわたる。今の松戸附近也。晩に及びて、雨ふり、風寒し。皷躁して、敵の不意を襲ふ。氏康の軍、それと知りて、攻め上る。さすがに猛き義弘も、三樂齋も、前後に敵をうけて、終に大いに敗れぬ。
義弘の馬は、敵の矢に斃れたり。今はこれ迄と覺悟しけるに、安西伊豫守、馳せよりて、馬より下り、義弘に乘らしめて、ひとり留まりて討死せり。かくて、義弘は、わづかに身を免れたる也。
三樂齋もいたく傷を負ひたり。清水太郎左衞門の子、又太郎に組みふせらる。又太郎、首かゝむとて、かき得ず。三樂齋いらつて、其方は、うろたへたるか、わが首には、咽輪あり。ゆるめて掻けといふ。いみじくも指南せられたり。あつぱれ剛なる最期の際、感じ入る。さらばとて、咽輪をおしのけむとする處へ、舍人孫四郎、野本與次郎の兩人來りて、又太郎を引倒し、三樂齋に首をとらせぬ。かくて、三樂齋も漸く免るゝことを得たる也。張本人の新六郎も、創は負ひたれど、奮鬪して、のがれ去れり。
これ實に永祿六年正月八日の事也。余は、『關八州古戰録』によりて書きしるしぬ。言葉も、そのまゝに取れる所あり。『屍の上の恥辱』の語も、或は『古戰録』の作者より出でたるべけれど、それにしても、作者が當時の武士一般の感情を言ひあらはしたるもの也。
茲に氣の毒なるは、里見の侍大將、正木彈正左衞門也。山角伊豫守と組んで、馬より落ちて、上にはなりたるが、落つる拍子に、右の手を突折りたり。左の手のみにては、どうすることも出來ず。曳々聲を出して押付くる間に、終に下よりつき殺されたるは、如何に殘念なりけむ。
なほ物の哀れをとゞめたるは、里見長九郎弘次の身の上也。『鴻臺後記』に據るに、月毛の馬に乘り、母衣かけて、ひとり落ちゆきしに、松田左京進康吉、追ひつき、剛の者なれば、難なく組みふせ、首かゝむとして躊躇す。弘次は、里見一門の大將也。その首をとらば、非常なる手柄也。左京進は、何故に躊躇したるぞ。あゝ他なし。弘次は、大將は大將なれど、これが初陣にして、年わづかに十五、紅顏花をあざむくばかりの美少年也。強敵をえらぶ習ひの武士、しかも物のあはれを知るの武士、いづくんぞ赤子の腕をねぢるに忍びんや。助けばやとは思へど、味方も多く進み來りぬ。われ助くるとも、他
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