ば[#「冷かせば」は底本では「冷かせは」]、泣きさうになる。裸男歎息して曰く、『女子と小人とは、養ひ難い哉』。
寺男を頼みて、庭の木戸を開けてもらひ、池畔に立てる萩の舍大人落合直文先生の歌碑を見る。其の歌に曰く、
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萩寺の萩おもしろし露の身の
おくつき處こゝと定めむ
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去つて、龜戸天神に詣づ。府下有數の名祠也。池の中央、賽路に方りて、二つの太鼓橋あり。池には鯉多く、池をめぐりて藤棚相連なる。祠後の梅林無くなり、その代りに藤棚出來て、龜戸天神は益※[#二の字点、1−2−22]藤の名所也。菅公の生前、さん/″\藤原氏に責められたるに、神となりても、なほ藤責めになるとは、如何なる因縁ぞや。境内に石碑多きが中に、中江兆民翁の碑、殊に人の目を惹く。
枯れ殘りたる臥龍梅を一瞥して去る。東京第一の梅林なりき、水戸義公、臥龍梅と命名したりき。徳川八代將軍、更に代繼梅と命名したりき。明治の初には、皇太后の行啓さへありきなどいふも、死兒の齡を數ふるの類なるべし。木下川《きねがは》梅園も無くなりたり、江東梅園も無くなりたり。江東の地、一に何ぞ梅に祟るや。而して烟突多くなれり。
吾嬬村に至りて、吾嬬神社に詣づ。弟橘姫を祀る。祠の右に楠の大木あり。連理楠と稱す。左に吾嬬森の碑あり。『東京近郊名所圖繪』に據れば、『これ尊王の犧牲となりたる山縣大貳の撰に係る。藤原博古とあるは、大貳刑死の後、神官累の及ばむことを恐れて、斯く刻し換へたる也。下總國葛飾郡吾嬬森碑とあり。その下總の二字に注目せよ。兩國橋の名にも知らるゝ如く、隅田川以東は下總國なりしが、徳川幕府は小利根川以西を武藏國に取入れたり。大貳之を知らざる筈なし。わざと下總としたるは、先王の制に從ひて、尊王の義を表したるなり』と説けり。大貳必ずや地下に首肯せむ。
日暮れむとして、細雨ふりかゝる。裸男と山神とは洋傘を持ちたるが、夜光命は持たず。男同士の相合傘、空しく橋本の前を過ぎて、身を電車に投ず。[#地から1字上げ](大正五年)
底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年8月2
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