むともせず、裂きたる玉章手にもちて、くれなゐの袖、やさしき口にかみしめたるまゝ、何を怨むか、続々として欄干の上に堕す涙の、月にかゞやきて、さながら真珠を散らすが如くなるに、よそめもいとゞ消えたき思ひすべし。
 ひねもす清渓に釣する翁の、家にまつ人もなければにや、日くるゝも、なほ枯れ木の如く石に腰かけて、垂るゝ綸のはしに、いつしか一痕の月かゝるよと見るほどに、やがて手応へしければ、ひき上ぐる竿の彎々たるにかゝり来れる一尾の香魚の溌刺たるを捉へて、かごに入れて、今日はこれまでなりと、鼻歌たかくうたひて帰りゆきしあと、渓水旧に依りて、空しく月を砕いて流るるもいとすが/\し。
 ひとりにはひろき蚊帳の中、白くほのみえて、あふぐ団扇の音と共にえならぬ香り洩れて、縁には焚きさしの蚊遣火なほいきて残れる夏の短夜に、またぬ月影、はや松の枝にかたむきそめて、さやけき光を、ねやの中まで送れるは、いかなる浮世の外の情ぞや。
 薄に置ける白露を、かしくと読みしゆふべ、夜に入りて暗きをたよりに、跫足しのばせてたどる行手の黒き影に、さぞやまちわびてと近寄るほどに、雲破れて洩るゝ月の下、さびしげに立てる石地蔵の前に
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