て舟を漕ぐ。上流に溯る。月は白く、風は清し。四面蒼茫として、往きかふ舟も無し。櫓の聲、舟の水を切る音、天地の寂寞を破りて、美人の顏のみぞ光る。さしつさゝれつ、ます/\醉へり。
 荒川と綾瀬川と相合する處、蘆荻しげれり。舟をその蘆荻の中にとゞめ、舟夫をも呼びて、杯をめぐらす。美人、十七八。下ぶくれの愛くるしき顏なり。月下に酌する手、雪より白し。われには既に妻あり。瑞村には未だ無し。月下の氷人とならむかと云へば、赤らめたる顏を袖にうづむ。青々たる蘆荻は、自然の屏風、四顧たゞ月を見る。凉風醉面を吹いて、快言ふべからず。且つ飮み且つ語り、興酣にして、惜しや一樽の酒既に盡きたり。
 香峰の家に歸りて、また飮む。いつの間にか醉倒しけむ。曉にいたりて、漸く醒む。瑞村はと問へば、昨夜歸りたり。明日の午後は、ひまなり、今日の碁の復讐をなさむとす、俗塵を離れたる上野の茶亭に會合したし、傳語してくれよとの事なりといふ。われ碁を好むこと、食色よりも甚し。されば大に鋭氣を養ひおかむとて、また眠る。さむれば、午を過ぎたり。香峰と共に往く。瑞村既に在り。碁を圍みて晩に至る。瑞村、晩食しにゆかずやといふまゝに、諾してゆけば、われを不忍池畔の一酒樓に導きぬ。酒到る。大小妓數名來たる。あゝわれ圖られたり。昨夜舟中の費用は、われこれを辨じけるが、江戸兒氣の瑞村、そのまゝにしては置かれず、言を余の好める圍碁に託して、余を此の酒樓に誘ひ出したるなり。
 十年の歳月は、夢の如くに過ぎぬ。瑞村と相逢ふことも稀なりしが、此頃同じく大久保村に住めるを以て、朝夕相往來す。今日この行を共にし、舟中より墨堤を指點して、感いとゞ切なり。當年舟を止めし處、舊に依りて蘆荻はや芽を吐きたり。あゝ山水は移らずして、人事は非なり。われ逝く水に對して、覺えず涙を墮す。悲しいかな、香峰は才子多病の喩へに洩れずして、其の後間もなく病みて逝きぬ。知らず、墨陀の二嬌、今在りや無しや。[#地から1字上げ](明治四十四年)



底本:「桂月全集 第一卷 美文韻文」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年5月28日発行
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2009年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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