を進めた。
 食事が済むと、なに思ったのかステッキを提《さ》げて、闇の戸外へ出て行った。そして東側の林の方へ、妙な散歩に出掛けはじめた。が間もなく帰って来ると、人々の相手にもならず、黙り込んで二階へとじこもってしまった。皆は口もきかずに顔を見合わせる。
 翌朝――
 司法主任が元気でやって来た。
 昨日の家宅捜査で見事に物的証拠を挙げた彼は、東京に於ける亜太郎の葬儀が済み次第、不二を検挙する旨を満足げに話した。けれども大月は一向浮かぬ顔をして、うわの空で聞いていたが、やがて主任の話が終ると、突然意外なことを云いだした。
「あなたはまだ、川口が殴り殺されたのだと思っていられますね」
「な、なんですって?……立派な証拠が」
「勿論、その証拠に狂いはないでしょう。川口の致命傷は、確かにあの絵具箱の隅でつけられたものに違いありますまい。けれども川口は、あの絵具箱で殴り殺されたのではないのですよ」
「と云うと?」
「独りで転んだ時に、絵具箱の隅に触れたんです」
「飛んでもない? 川口は立派な遺言を残して……」
「ありゃあそんな遺言じゃ有りません。もっと外に意味があります」
「と云うと?」
「それが非常に妙なことで、とにかくあの事件の起きた日の日没時に、この東室の窓に、実に意外な奴が現れたんです。そいつは、私達にとっても、確かに一驚に値する奴なんだが。特に川口にとってはいけなかったんです。で、吃驚《びっくり》した川口は、思わずよろよろと立上った途端に、左手に持ったままの調色板《パレット》の油壺から零《こぼ》れ落ちた油を、うっかり踏み滑って、後にあった絵具箱へ、後頭部をいやと云う程打ちつけたのです。これが、川口亜太郎の、疑うべきもない直接の死因です」
「一寸待って下さい。……あなたは先刻《さっき》から、何か盛《さかん》に話していられるようだが、私にはさっぱり判りません。先日、私が川口不二を容疑者として連行した時に、あなたは、私が物的証拠を掴んでいないのを責められた。で、恰度あの場合と同様に、いま、あなたの云われる話について、なにか正確な証拠を見せて頂きたい」
「判りました」と大月もいささかムキになった。「必ずお眼に掛けましょう。が、いま直《ただち》にと云う訳には参りません。私の方からお招きに上るまで、待って下さい。必ずお眼に掛けます」
「……」
 司法主任は、くるりと後を振り向くと、足音も荒く、さっさと帰ってしまった。

          五

 さて、大月弁護士が、司法主任への約束を果したのは、それから二日目の、天気のよく晴れ渡った日暮時のことであった。
 大月と司法主任は、東室の長椅子《ソファー》に腰掛けて、窓の方を向いてお茶を飲んでいた。
 司法主任は、相変らず御機嫌が悪い。焦立《いらだ》たしげに舌打ちしながら、やがて大月へ云った。
「まだですか?」
「ええ」
「まだ、出ないんですか?」
「ええ、もう少し待って下さい」
 そこで司法主任は改めてお茶を飲みはじめた。が、暫くすると、一層焦立たしげに、
「いったい、その怪しげな奴とやらは、確かに出て来るんですか?」
「ええ、確かに出て来ますとも」
「いったい、そ奴は何者です?」
「いや、もう間もなく出て来ます。もう少し待って下さい」
「……」
 司法主任は、不機嫌に外を向いてしまった。
 空は美しい夕日に映えて、彼方の箱根山は、今日もまた薄霧の帳《とばり》に隠れている。
 裏庭の広場では、どうやら安吉老人が薪《たきぎ》を割り始めたようだ。きっと浴室の煙突からは、白い煙が立上っているに違いない。
 と、不意に司法主任が立上った。右手にコーヒー茶碗を持ったまま、呻くように、
「こ、こりゃあ、どうしたことだ!」
「……」
「あんなところに……」司法主任の声は顫えている。「あんなところに……むウ、富士山が出て来た!……こ、こりゃあ妙だ?」
 見ればいつのまにか、箱根山を包んだ薄霧の帳《とばり》の上へ、このような方角に見ゆべきもない薄紫の富士の姿が、夕空高く、裾のあたりを薄暗《うすやみ》にぼかして、クッキリと聳えていた。
「あなたは、こう云う影の現象を、いままでにご存じなかったのですか?」
 大月が微笑みながら云った。
「いや私は、最近こちらへ転勤して来たばかりです!……ふうム、成る程。つまりこりゃあ、入日を受けて霧の上へ写った、富士山の影ですね」
「では、序《ついで》に」と大月は前方を指差しながら、「どうです、ひとつ、あの近景の木立を見て頂きましょうか」
「……」
 司法主任は黙ってそちらを見た。
「……あれは、なかなか恰好のいい木立でして……」
「やややッ!」と主任は奇声を張りあげた。「むウ……色が変ってしまった!」
 成る程、薄暗の中に一層暗くなっていなければならない筈の暗緑色の木立は、なんとした事か疑いもなく南室から見える木立と同じように、明かに白緑色を呈している。
「先晩、調べてみましたがね」大月が云った。「あれは合歓木《ねむ》の木立でしたよ。そら、昼のうちは暗緑色の小葉《こば》を開いていて、夕方になると、眠るように葉の表面をとじ合わせて、白っぽい裏を出してしまう……」
「成る程……判りました。いや、よく判りました。つまり川口は、あの時、この景色を描いていたんですね」
「そうです」
「じゃあ、それからどうなったんです?」
「……ねえ、主任さん」と大月が開き直った。「私達は始めての土地へ来ると、よく方位上の錯覚を起して、どちらが東か南か、うっかり判らなくなることがありますね。……当時の亜太郎も、きっとそれを経験したのです。で、東京を出る時に、見送りに来た白亭氏から、妙な注意をされて、なにも知らない川口氏は、なんのことかさっぱりわからず、持ち前の小心でいろいろと苦に病み、金剛氏等の云うようにすっかり鬱《ふさ》ぎ込んでしまったのでしょう。けれども目的地に着いて、この地方の美しい夕方の風光に接すると、画家らしい情熱が涌き上って来て、心中の疑問も暫く忘れることが出来、早速|東室《このへや》へやって来ると、この窓に恰度こんな風に現れていた影富士を見て、直《ただち》に方位上の錯覚を起し、感興の涌くままに、本物の富士のつもりで、この薄紫の神秘的な影富士を素速く写生しはじめる……」
「成る程」
「けれども、勿論これは、入日のために箱根地方の霧に写った影富士ですから、当然間もなく消えてしまいます。そこで、ふとカンバスから視線を離した川口氏は、一寸《ちょっと》の間に富士が消えてしまったのに気づいて、始めから本物だと思い込んでいただけに、この奇蹟的な現象に直面して、ひどく吃驚《びっくり》したに違いありません。するとその瞬間、川口氏の頭の中にその朝東京を出るときに白亭氏から与えられた妙な注意の言葉が、ふと浮びます。あれは、確か……あちらへいったら、ふじさんにきをつけなさい……と云うような言葉でしたね?……」
「むウ、素晴しい。……つまり、やっぱり私が、最初から睨んでいた通り、不二さんは、富士山に、通ずる……ですな……ふム、確かにいい。実に、完全無欠だ!」
 司法主任はすっかり満悦の体《てい》で身を反らし、小鼻をうごめかしながら、おもむろに窓外を眺め遣《や》った。
 そこには、夕風に破られた狭霧の隙間を通して、恰度主任の小鼻のような箱根山が、薄暗の中にむッつり眠っているだけで、もう富士の姿は消えたのか、影も形も見えなかった。
[#地付き](「ぷろふいる」昭和十一年一月号)



底本:「とむらい機関車」国書刊行会
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「ぷろふいる」ぷろふいる社
   1936(昭和11)年1月号
初出:「ぷろふいる」ぷろふいる社
   1936(昭和11)年1月号
入力:大野晋
校正:川山隆
2009年1月27日作成
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