ませんでしたか?」
「いませんでした」
「御主人以外の誰れか」
「誰れもいません」
「ははア」
 司法主任は割に落付きすました美しい不二の眼隈《めくま》の辺《あたり》を見詰めながら、これでこの女が嘘をついているとすればまるッきりなんのことはない、と思った。そして決心したように立上ると、参考人と云う名目で、金剛と不二の二人を連行して、本署へ引挙げることにした。
 苦り切って一行に従った金剛蜻治は、警察署のある町まで来ると、昨日東京を発った時に見送ってくれた別荘主の津田白亭に、まだ礼状の出してなかったことに気がついた。そこで郵便局へ寄途《よりみち》して礼状ならぬ事件突発の長い電報を打った。
 白亭からは、いつまで待っても電報の返事は来なかった。が、その代り、その日の暮近くになって、白亭自身、一人の紳士を連れて蒼徨《そうこう》としてやって来た。紳士と云うのは、白亭とは中学時代の同窓で、いまは錚々《そうそう》たる刑事弁護士の大月対次《おおつきたいじ》だ。愛弟子《まなでし》の変死と聞いて少からず驚いた白亭が、多忙の中を無理にも頼んで連れて来たものであろう。
 やがて二人は司法室に出頭して、主任から詳細な事件の顛末を報告された。けれども話が亜太郎の描き残した疑問の絵のところまで来ると、何故《なぜ》か白亭はハッとして見る見る顔色を変えると、眉根に皺を寄せて妙に苦り切ってしまった。

          三

 司法主任は流石《さすが》に白亭の微妙な変化を見逃さなかった。
 事件の報告は急転して、猛烈な、陰険な追求が始まった。が、白亭も流石に人物だ。あれこれと取り繕《つく》ろって、執拗な主任の追求を飜《ひるがえ》すようにしていたが、けれども、とうとう力尽きて、語り出した。
「……どうかこのことは、死んだ者にとっても、生きている者にとっても、大変不名誉なことですから、是非とも此処だけの話にして置いて下さい。……川口と金剛とは、二人とも十年程前から私が世話をしていますので、私共と二人の家庭とは、大変親しくしていましたが、……これは最近、私の家内が、知ったのですが……川口の細君の不二さんと、金剛とは、どうも……どうも、ま、手ッ取早く云えば、面白くない関係にある、らしいんです。で大変私共も気を揉《も》んだのですが、当の川口は、あの通りの非常な勉強家でして、仕事にばかり没頭していて、サッパリ気がつかないのです。それにあの男は、大変神経質で気の小さな男ですから、うっかり注意してやっても、却《かえっ》て悪い結果を齎《もたら》してはと思いまして、それとなく機会を覗《うかが》っていたのです。ところが、つい四、五日前に、二人で岳陰荘を使いたいからと申込まれましたので、早速貸してやりました。けれども、昨日《きのう》東京を出発の際、私共夫婦で見送りに出たんですが、てっきり二人だけと思っていたのに、川口の細君も同行するのだと云ってついて来ているので、少からず驚いた次第でした。何も知らない川口は川口で、当分滞在するのだなどと、すっかり無邪気に躁《はしゃ》いでいますし、私共は大変心配しました。……で、こちらへ移って、三人だけの生活がどんなになるかと思うと、うっかり私も堪らない気持になりまして、発車間際の一寸《ちょっと》の隙をとらえて、ついそれとなく川口に『あちらへ行ったら、不二さんに注意しなさい』と言ってやりました。……後で、後悔したのですが、やっぱりこれが悪かったのです」
「と被仰《おっしゃ》ると?」
 司法主任の声は緊張している。
「つまり……私が……」
 白亭は一寸戸惑った。
 すると主任がすかさずたたみかけた。
「いや、判りました……つまり、富士山は、不二さん、に通ず……なんですね」
「いいえ、そう云うわけでは」
「ああいや、よく判りました……こりゃ、すっかり考え直しだ」
 そう云って司法主任は、椅子の中へそり反りながら、
「お蔭で、何もかも判り始めました。あの疑問の中心の妙な油絵も、こう判って見れば、まことに理路整然として来ますよ……そうだ、全く今になって考えてみれば、あの富士山の絵も、やはり南室で描かれたものではなく、最初の発見通り東室で、被害者の死際に描かれたものですね……あの東室の床の上の油の零《こぼ》れ工合と云い、その上を被害者の足の滑った跡の工合と云い、全くあれは、贋物にしては出来過ぎていますよ。あの屍体は南室から運ばれたのではなく、始めから東室にあったんですね。……つまり、今あなたの被仰《おっしゃ》ったように、金剛氏と不義関係にあった被害者の妻が、南室で荷物の整理をしながら、一寸の隙を見て東室へ忍び入り、これから写生をしようとしていた被害者を、後から殴り殺して、再び南室に戻り知らぬ顔をしている……一方断末魔の被害者は、倒れながら自分に危害を加えた妻を見て、恐怖にひっつりながらも死物狂いで目の前のカンバスへ、恰度持合わせた絵筆をふるって、加害者の名前を描く……いや、これは傑作だ……不二は富士、に通ずる……全く傑作です!」
 司法主任は、相手にかまわず独りで満足している。こうして白亭の意外な陳述は、忽ち不二の立場を、真ッ暗な穴の中へ陥入れてしまった。屍体の運搬説は転じて奇妙な遺言説? となり、警察司法部は俄然色めき立って来た。
 一方津田白亭は、自分の証言が意外な波紋を惹き起したのにすっかり狼狽してしまい、事態の収拾を大月弁護士に投げ出してしまった。
 そこで大月は色々と策戦を練った上、容疑者の検挙に何等の物的証拠のないのを主要な武器として、今度は直接警察署長に向って猛烈な運動をしはじめた。
 この折衝は翌日の正午《ひる》まで続けられた。そしてその結果、これは大月の名声も大いに与《あずか》って力あった事は否《いな》めないのだが、ひとまず容疑者の検束は延期になり、やがて一行は岳陰荘へ引挙げて来た。
 そしてその翌日、東京へ解剖に送られる亜太郎の屍体と一緒に、津田白亭と川口不二は葬儀、その他の準備のために私服警官付添の上で上京し、一方弁護士の大月対次は岳陰荘に踏み留まって、金剛蜻治を表面助手として、内心では「こいつも同じ穴の貉《むじな》だわい」とひそかに監視しながら、事件の解釈と新しい証拠の拾集に没頭しはじめた。
 亜太郎の残した奇怪な油絵については、大月はその絵をひと目見た瞬間から、司法主任の遺言説に深い疑惑を抱いていた。
 もしも亜太郎が、その断末魔に臨んで、自分を殺した者が妻の不二であることを第三者に知らせるために、あのような富士山の絵を描き残した、と解釈するにしては、余りにもあの絵には余分な要素が多過ぎる。
 例えば木立だとか、空だとか……そうだ。もしも亜太郎が、妻の名前を表わすために描いた絵であったなら、富士山ひとつで充分だ。あのようないくつかの余分な要素を、しかもあれだけ純然たる絵画の形式に纏め上げるだけの意力が、既に死期に臨んだ亜太郎にあったのならば、もっと直截に、文字で例えば「不二が殺した」とか、或は「犯人は不二だ」とか、まだまだいくらでも表わしようはある。いやなによりも、窓際に飛び出して、絶叫することすら出来る筈だ。――問題は、もっと別なところにあるに違いない。
 二階の東南二室の間を、コツコツと往復《ゆきき》しながら、終日大月は考え続けた。けれども一向曙光は見えない。
 翌日は、別荘番の老夫婦を、改めてひそかに観察してみた。が、これとても何の得るところもなく終った。
 大月の巧妙な束縛を受けて、鎖のない囚人のように岳陰荘にとどめられた金剛はと云えば、割に平気で、時々附近の林の中へ出掛けては、なにかと写生して来たりしていた。けれどもその絵を見ると、それはこの地方が地形上特に曇天の日の多いせいか、大体は金剛の画風にもよるであろうが、いやに陰気で、妙にじめじめした感情が画面に盛り上っているのだ。大月はその度に、画家と云うものの神経を疑いたくなった。
 次の日の午後、来合わせた警官から、東京に於ける亜太郎の解剖の結果を聞かされた。けれどもそれは、先に挙げた平凡な後頭部の打撲による脳震盪が死因であると云う以外に、変ったニュースは齎《もたら》されなかった。そして大月は、ふと犯人が亜太郎を殴りつけた鈍器を探すことを思いついて、二階へ上っていった。
 けれどもこの仕事はなかなか六ヶ敷かった。亜太郎の後頭部は、兇器に判然と附着するほど出血したのでもなければ、また兇器の何たるかを示す程の骨折をしたのでもない。この場合恐らくステッキでも棍棒でも、又花瓶でも木箱でも兇器となり得る。――大月弁護士は日暮時まで、二階の床をコツコツと鳴らし続けていた。
 が、やがてどうしたことか急に階段を降りて来ると、別荘番の戸田を大声で呼びつけた。そして頻《しきり》に首を傾《か》しげながら、
「……妙だ……」
「……妙だ……」
 と呟きはじめた。
 が、やがて安吉老人がやって来ると、幾分|顫《ふる》えを帯びた声で、
「おい君、変なことを訊くがね……二階の東室の窓から、三十|間《けん》程向うに、一寸した木立が見えるだろう?」
「はい」
 と安吉老人は恐る恐る答えた。
 すると、
「あの木立は、今日、他所《よそ》の木と植替えたのかね?」
「そ、そんな馬鹿な筈はありません。第一、旦那様」と安吉は目を瞠《みは》りながら「あれだけのものを植替えるなんて、とても一日や二日で出来ることではありません」
「ふうム……妙だ」
「ど、どうかいたしましたか? 木でもなくなったんですか?」
「違う……いや確かに妙だ。……時に金剛さんは何処にいる?」
「只今、お風呂でございます」
「そうか」
 大月はそのまま二階へ上ってしまった。

          四

 その翌日は珍しく上天気だった。
 司法主任を先頭にして数名の警官達がこれでもう何度目かの兇器の捜査にやって来た。
 大月にまでも援助を申出た彼等は、二階の洋服箪笥の隅から階下の台所の流しの下まで、所謂警察式捜査法でバタリピシャリと虱潰《しらみつぶ》しにやり始めた。
 が、今日は殆ど一日かかって、午後の四時頃、とうとう司法主任は歓声を上げた。それは、もういままでに何度も何度も手に取って見ていた筈の、事件の当時亜太郎の屍体の側に転がっていた細長い一個の絵具箱であった。
 慧眼の司法主任は、ついにこの頑丈な木箱の金具のついた隅の方に、はしなくも一点の針で突いたような血痕を発見したのだ。
 主任は、岳陰荘を引挙げながら、勝誇ったように大月へ云った。
「どうやらこれで物的証拠も出来上ったようですな」
 弁護士は軽く笑って受け流した。
 けれどもやがて一行が引挙げてしまうと、なに思ったのか大月はさっさと二階へ上っていった。そして東室の窓を開けると、手摺に腰掛けて、阿呆のように外の景色に見惚《みと》れはじめた。
 いつ見ても、晴れた日の樹海の景色は美しい。細かな、柔かな無数の起伏を広々と涯《はて》しもなく押し拡げて、彼方には箱根山が、今日もまた狭霧《さぎり》にすっぽりと包まれて、深々と眠っていた。
 裏庭の広場からは、薪を割る安吉老人の斧の音が、いつもながら冴え冴えと響きはじめ、やがて静かな宵闇が、あたりの木陰にひたひたと這い寄って来る。浴室の煙突からは、白い煙が立上り、薪割りをしながら湯槽《ゆぶね》の金剛と交しているらしい安吉老人の話声が、ボソボソと呟くように続く。おとみ婆さんは、夕餉《ゆうげ》の仕度に忙しい。
 間もなく岳陰荘では、ささやかな食事がはじまった。が、大月弁護士はまだ二階から降りて来ない。心配したおとみ婆さんが、階段を登りはじめた。と、重い足音がして、大月が降りて来た。
 けれどもやがて食卓についた彼の顔色を見て、おとみ婆さんは再び心配を始めた。
 僅か一時間ばかりの間に、二階から降りて来た大月は、まるで人が変ったようになっていた。血色は優れず、両の眼玉は、あり得べからざるものの姿でも見た人のように、空《うつ》ろに見開かれて、食器をとる手は、内心の亢奮を包み切れずか絶えず小刻《こきざみ》に顫えていた。
 大月は黙ってそそくさと食事
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大阪 圭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング