を入れた。けれども医師は、この絵が決して頭だけで描かれた絵でない証拠として、彼が先刻この家に着いたばかりに、この二階の隣室との境の廊下で、恰度開け放たれていた南室の扉《ドア》を通して、まだ暮れ切らぬ南室の窓の外に、この油絵と全く同じ風景を見たと云い出した。そして呆気にとられている人々を尻目にかけ、鞄を片付けて抱え込むと帽子を無雑作に冠《かぶ》りながら、振り返って吐き出すように云った。
「……ですからこの絵は、この室の窓から見えるべき絵ではないと同時に、明かにあちらの、南の室の窓からのみ見える絵なんです。ま、明日にでもなったら、試みに調べて御覧なさい」
二
医師の主張は、翌朝見事に確められた。
二階の南室の窓からは、成る程医師の云う通り、川口亜太郎の描き残した写生画と寸分違わぬ風景が明かに眺められた。中天に懸った富士の姿と云い、目前五、六十|米突《メートル》の近景にある白緑色の木立と云い、朝と夕方とでは色彩の上に多少の変化があるとは云え、全く疑うことの出来ない風景だった。しかも一方、明かに亜太郎の描き残した写生画は、先にも云ったように色々の絵具を幾層にも塗り上げて行って最後に仕上げをする下塗描法ではなく、一見して最初から大胆直截に描者の最後の目的の色で描き上げた直接描法であるから、この絵はこれで殆んど完成されたものであり、色彩の上にも明かに疑いをさしはさむ余地はなかった。
もっとも亜太郎の倒れていた東室の窓からも、目前五、六十|米突《メートル》のところに南室の窓から見えるのと同じような形の一群の木立があるにはあるが、これは明かに白緑色ではなく、明るい日光の下にハッキリと暗緑色を呈していた。そしてその木立の彼方には、疑いもなく箱根山の一団がうねうねと横たわっていた。
もはや事態は明瞭である。警官はこの絵が描かれた時の亜太郎の所在に対して疑いを集中して行った。
死人に足が生える――このような言葉があるとすれば、まさにこの場合には適当で、南室で死んだ亜太郎が一人で東室まで歩いて来たなどと云うことがないかぎり、どうしてもこの場の事態をとりつくろうためには、まず誰れかが、南室で窓の外を写生していた亜太郎の後頭部を鈍器で殴りつけ、亜太郎の死を認めると、何かの目的で屍体を東室に移しかえ、描きかけていた絵の道具もそっくりそのまま東室へ運び込んで、いか
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