……なんでもないよ。……それから、この死人の傷にしたって、何か重味のある兇器で使いようによっては充分こうなる。……それからまた、内側の減った下駄にしても、なにも内股に歩くのは、こちらの奥さん一人きりというわけでもないだろう……わかったね。じゃァひとつ、これから、その亡くなった奥さんの、人形町の実家というのへ案内してくれ。そこにいる女を、片ッ端から叩きあげるんだ」
 警官は、そういって、ガッチリした体をゆすりあげたものでございます。ところが、この時、いままで旦那様の御遺骸を調べられていた、わりに若い、お医者様らしいお方がやって来られまして、不意に、
「警部さん、あなたは、なにか勘違いをしてられますよ」
 とテキパキした調子で、始められたんでございます。
「たとえば、あなたの鉄棒を曲げるお説ですね。聞いてみれば、成程ごもっともです。その手でやれば、二本の鉄棒は、人間の力で充分曲がりましょう。しかし、いまあの窓で曲げられているのは、三本ですよ。三本曲げるにはどうするんです。え? いまのあなたのお説では、二本しか同時に曲げることはできないのですから、二本とか四本とか六本とか、つまり偶数なら曲げられるが、一本とか三本とか五本とか、奇数ではどうしても一本きり余りができて、手拭の輪をかけることもできないではありませんか。……だからあれはそんな泥棒じみたからくりで抜いたんではありませんよ。本当に魔物のような力でやったんです。
 ……それから、例の下駄の件ですがね、あなたは、あの下駄を履いた内股歩きの女が、人形町あたりにいるようなお見込みですが、しかし、こういうことを一応考えてください。つまり、下駄の裏の鼻緒の結び跡が残るほど内側が減るには、一度や二度履いただけではなく、いつも履いていなくちゃアならぬわけでしょう。そうすると、鏡台に向かって、乱れた髪をときつけて帰って行くような、たしなみを知っている普通の女がいつでも庭下駄なんぞを履いて、しかも人形町あたりでゾロゾロしているというのはちょっとおかしかないですか……」
 そう言ってお医者さんは、急に部星の隅へ行かれて、畳の上から例の忌《い》まわしい線香の束を拾いあげると、今度はそいつを持ってツカツカと私の前へやって来られていきなり、
「あなたは谷中の墓地にある、亡くなられた奥さんのお墓の位置を知っていますか?」
 と訊《き》かれたんでございます。抜き打ちの御質問でびっくりした私が、声も出せずに黙ってうなずきますと、その若い利巧そうなお医者様は、
「では、これから、そのお墓まで連れて行ってくれませんか」
 と今度は警官のほうへ向き直って、
「ねえ警部さん。この線香の束は、まだこれから使うつもりの新しいものですよ。ひとつこれから、谷中の墓地へ出掛けて、こいつをここへ忘れて行った、その恐ろしいものにぶつかって見ませんか?」
 とまアそんなわけで、それから十分ほど後には、もう私共は警察の自動車に乗って、深夜の谷中墓地へやって来たのでございます。
 墓地の入口のずっと手前で自動車を乗り捨てた私共は、お医者様の御注意で、お互いに話をしないように静かに足音を忍んで、墓地の中へはいったのでございますが、ちょうどそのとき雲の切れめを洩れた満月の光が、見渡す限りの墓標を白々と照らし出して、墓地の周囲の深い木立が、おりからの夜風にサワサワと揺れるのさえ、ハッキリと手にとるように見えはじめたのでございます。――いや全くこの時のものすごい景色は、案内人で先へ立たされていた私の頭ン中へ、一生忘れることのできないような、なんて申しますか、印象? とかいうものを、焼きつけられたんでございます。
 ――ところが、それから間もなく、奥様のお墓の近くまでやって参りました私は、不意にギョッとなって立ち止まったのでございます。――見れば、まだ石塔の立っていないために、心持ち窪んで見える奥様のお墓のところから、夜目にもホノボノと、青白い線香の煙が立っているではありませんか。
「ああ、確かあの、煙の立っているところでございます」
 もう私は、案内役ができなくなりましたので、そう言ってふるえる手で向こうを指差しながら、皆様に先に立っていただきました。するとお医者様が真っ先になって、ドシドシお墓のところまでお行きになりましたが、立ち止まって覗《のぞ》き込むようにしながら、
「こんなことだろうと思った」
 そういって、私達へ早く来い――と顎をしゃくってお見せになりました。続いてかけつけた私達は、ひとめお墓の前を覗き込むと、その場の異様な有様に打たれて、思わず呆然《ぼうぜん》と立ち竦んだのでございます。
 ――黒々と湿った土の上に、斜めに突きさされた真新しい奥様の卒塔婆《そとば》の前には、この寒空に派手な浴衣地の寝衣を着て、長い髪の毛を頭の上でチョコ
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