怪我人が喘ぎ喘ぎ云った。紳士は早速運転手に手伝わせて怪我人を抱き上げ、自動車《くるま》の中へ運び込んだ。
「……すみません……」怪我人が苦しげに息づきながら云った。「……わっしア、ご覧の通り……夜旅のもんです……あいつめ、急に後ろから来て……わっしが、逃げようとするほうへ……旦那……なにぶん、お願いします……」
 怪我人はそう云って、もうこれ以上|喋《しゃべ》れないと云う風に、クッションへぐったりと転《ころが》って、口を開け、眼を細くした。
 紳士は大きく頷いて見せると、鞄を持って運転手の横の助手席へ移った。
「さあ出よう。大急ぎだ。箱根までは、医者はないだろう?」
「ありません」
 自動車は、再び全速力で走りだした。
 とうとう峠にやって来た。
 道が急に平坦になって、旋回している航空燈台の閃光が、時々あたりを昼のように照し出す。もう此処《ここ》までやって来ると、樹木は少しも見当らない、一面に剪《か》り込んだような芝草山の波だ。
 と、向うから自動車が一台やって来た。ヘッド・ライトの眩射が、痛々しく目を射る。――先刻《さっき》のクーペだろうか?
 だがその自動車《くるま》は[#「自動車《くるま》は」は底本では「自転車《くるま》は」]、似ても似つかぬ箱型《セダン》だった。客席には新婚らしい若い男女が、寝呆《ねぼ》け顔をして収まっていた。
「いま、クーペに逢ったろう?」
 徐行しながら運転手が、向うの同業者へ呼びかけた。
「逢ったよ。有料道路《ペイ・ロード》の入口だ!」
 そう叫んで、笑顔を見せながら、新婚車は馳け去って行った。
 間もなく有料道路《ペイ・ロード》の十国峠口が見えだした。
 電燈の明るくともった小さな白塗のモダーンな停車場《スタンド》の前には、鉄道の踏切みたいな遮断機が、関所のように道路を断ち切っている。
 その道の真中に二人の男が立って、遮断機の前でなにやらしていたが、自動車《くるま》が前まで来て止まると、その内の一人は事務所を兼ねている出札口へ這入って行った。
 紳士は真ッ先に飛び降りて、出札口へ馳けつけた。そして蟇口《がまぐち》から料金を出しながら、切符とは別なことを切り出した。
「いま私達より一足先に、クリーム色の派手なクーペが通ったでしょう?」
「通りました」出札係が事務的に答えた。
「どんな男でした? 乗ってたのは……」
「見えませんでした」
「見えなかった? だって切符を買いに来たでしょう?」
「いえ、来ません。あれは大将の自動車《くるま》です」
「なに、大将?」紳士は急《せ》き込んだ。
「はい」事務員は切符に鋏《はさみ》を入れて出しながら、「この会社の重役で堀見《ほりみ》様の自動車《くるま》ですから、切符なぞ売りません」
「なに、堀見?……ははア、あの岳南鉄道の少壮重役だな。じゃあ、クーペの操縦者は、堀見氏だったんだね?」
「さあ、それが……」
「二人乗ってたでしょう?」
「いいえ、違います。一人です。それは間違いありません」
 紳士の態度を警察官とでも感違いしたのか事務員は割に叮寧になった。
「いずれにしても」紳士が事務員へ云った。「大変なんだ。実は、あのクーペが、歩行者を一人|轢《ひき》逃げしたんだ」
「轢逃げ?」事務員が叫んだ。「で、怪我人は?」
「僕の自動車《くるま》へ収容して来た」
「大丈夫ですか?」
「それが、とてもひどい……恐らく、箱根まで持つまい」
 こう話している内にも、事務員は明らかに驚いたらしく、見る見る顔色が蒼褪《あおざ》めて来た。
「……そうでしたか……道理で可怪《おか》しいと思いました……いや、申上げますが、実は、此処でも変なことがあったんです」
「なに、変なこと?」紳士が乗り出した。
「ええ、それが、なんしろ、重役の自動車《くるま》ですから、其処《そこ》で止まったと思うと、直ぐに私は飛出して、遮断機を上げ掛けたんです。すると、余程急ぐとみえてまだ私が遮断機を全部上げ切らないうちに、自動車《くるま》はスタートして、アッと思う間に前部の屋根でこの遮断機を叩きつけたまま、気狂いみたいに馳け出してしまったんです」と表の道路の方を顎で差しながら、「……いままで二人して、応急の修理をしていたところです」
 こんどは紳士のほうが驚いたらしい。
「ふうむ、とにかく僕は、これから直ぐに箱根へ行くのだが――おッと、ここには電話があるだろう?」
「あります」
「よし。箱根の警察へ掛けてくれ給え。いま行ったクーペを直ぐにひっ捕えるように。いいかね。よしんば重役でも、社長でも、構わん」
「そんなら、とてもいい方法がありますよ。向うの箱根峠口の、有料道路《ペイ・ロード》の停車場《スタンド》へ電話して、遮断機を絶対に上げさせないんです」
「そいつア名案だ。だが、いまの調子で、遮断機をぶち破って
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大阪 圭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング