許さなかったんでしょう。むろん船員達は、荒男の集まりだけに、金にさえなれば根室なんかどうでもいい。一匹千円からする鯨のほうが、どれだけいいか判らない――とまア、そんなわけで、かれこれ一年たってしまいます。……ところが、ここに困った事は、独り者の船員達はともかくも、根室に妻子を置いてある砲手の小森ですよ。むろんあの男も、始めは他の船員達と同じ気持だったんでしょうが、段々日を経るにつれて、心の中に郷愁が芽生える。しかし船長《マスター》は、危険を覚えて、絶対に妻子のところへ帰さない。が、盛上る感情って奴は、押えたって押え通せるものではないですよ……根室の近くへ漁に来たチャンスを掴んで、とうとう小森砲手は、脱走してしまったんです……」
「ふーム」と船長が始めて口を切った。「成る程、それで、あとをつけた船長《マスター》の手で、あの惨劇が起されたわけですわ。……いや、よく判りました。実に御明察ですわい」
船長は、甲板に立って、改めて辺りを見廻すのだった。
海には、まだ大きな鯨共が、逃げもせずにグルグルと船の周囲《まわり》をまわっていた。それは不思議な景色だった。捕われた捕鯨船の船首砲には、その大きな鯨共を撃つための第二の銛が、用意されたままになっていた。老獪な船長《マスター》は、そうした不思議な鯨共を容易《たやす》く撃ち捕るために、密かに禁止された仔鯨撃ちを、永い間安吉に命じていたのだった。
仔鯨がいると親鯨はのろい。一年前の安吉のように、子供を置いてけぼりになど絶対にしないのである。
[#地付き](「新青年」昭和十一年十月号)
底本:「とむらい機関車」国書刊行会
1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「新青年」博文館
1936(昭和11)年10月号
初出:「新青年」博文館
1936(昭和11)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:noriko saito
2008年10月23日作成
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