「ああ、ごもっともです」と東屋氏は急にすまなさそうに首を振りながら、「いや申上げます。なんでもないんですよ。……あなたは、釧路丸の最高速度を、十二|節《ノット》と再三云われましたね……問題は、それなんですよ。ま、考えて見て下さい。その十二|節《ノット》の釧路丸は、欝陵島の警察からの報告によれば、殺人事件の前々日に、あの島の根拠地を出漁したんでしょう?……ところが、欝陵島から根室までは、最短八百五十|浬《カイリ》もあります。それで、釧路丸が最高速度で走ったとしても、ええと……七十時間、まる三日はかかるんですよ……いいですか、つまり殺人のあった晩に根室へはいった船は、断じて釧路丸ではないんです」
船長は、紙のように白くなりながら、喘《あえ》ぎ喘ぎ云った。
「じゃア、いったい、この船は?」
「この船は、去年の秋に、日本海溝附近で沈んだ筈の、北海丸ですよ」
「……」
皆が呆れはてて黙ってしまうと、東屋氏は、やおらタラップを登りながら、切りだすのだった。
「いや、捕鯨史始って以来の、大事件です……実はこう云う私も、この丸辰さんに船長《マスター》を鑑定させるまでは、その確信も八分位いしかなかったんですがね……時に船長。捕鯨船の法定制限数は、三十|隻《せき》でしたね。いやこれは、私の組立てた意見なんですが、――あの岩倉会社の大将は、二隻に制限されている自分の持船を、三隻にしたんですよ。つまり、幹部船員達と共謀して、一年前に北海丸の偽沈没を企てたんです。あの嵐の晩に、船側《サイド》の名前を書き変えて、まんまと姉妹船の釧路丸に偽装した北海丸は、勝手に油や炭塵を海に流し、贋《にせ》の無電を打って、さていち早く救助に駈けつけた釧路丸のような顔をしながら、サルベージ協会の救難船と一緒に、自分の幻を二日も三日も涼しい顔で探し廻ったんですよ……どうも呆れた次第ですが、……そうして、やがて船舶局には、北海丸の沈没が登録され……そうだ、私の考えでは、恐らく今度新造された新らしい北海丸なぞ、前の北海丸の保険金で出来たんじゃアないかと思いますね……とにかく、そうして岩倉会社は、表面法律で許された二隻の捕鯨船で、その実、三隻それも一隻はぬけぬけと脱税までして、能率を上げていたんですよ……ところが、この釧路丸は贋物なんですから、船員の口から秘密の洩れるのを恐れて、まず根室の附近へは、絶対に入港も上陸も許さなかったんでしょう。むろん船員達は、荒男の集まりだけに、金にさえなれば根室なんかどうでもいい。一匹千円からする鯨のほうが、どれだけいいか判らない――とまア、そんなわけで、かれこれ一年たってしまいます。……ところが、ここに困った事は、独り者の船員達はともかくも、根室に妻子を置いてある砲手の小森ですよ。むろんあの男も、始めは他の船員達と同じ気持だったんでしょうが、段々日を経るにつれて、心の中に郷愁が芽生える。しかし船長《マスター》は、危険を覚えて、絶対に妻子のところへ帰さない。が、盛上る感情って奴は、押えたって押え通せるものではないですよ……根室の近くへ漁に来たチャンスを掴んで、とうとう小森砲手は、脱走してしまったんです……」
「ふーム」と船長が始めて口を切った。「成る程、それで、あとをつけた船長《マスター》の手で、あの惨劇が起されたわけですわ。……いや、よく判りました。実に御明察ですわい」
船長は、甲板に立って、改めて辺りを見廻すのだった。
海には、まだ大きな鯨共が、逃げもせずにグルグルと船の周囲《まわり》をまわっていた。それは不思議な景色だった。捕われた捕鯨船の船首砲には、その大きな鯨共を撃つための第二の銛が、用意されたままになっていた。老獪な船長《マスター》は、そうした不思議な鯨共を容易《たやす》く撃ち捕るために、密かに禁止された仔鯨撃ちを、永い間安吉に命じていたのだった。
仔鯨がいると親鯨はのろい。一年前の安吉のように、子供を置いてけぼりになど絶対にしないのである。
[#地付き](「新青年」昭和十一年十月号)
底本:「とむらい機関車」国書刊行会
1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「新青年」博文館
1936(昭和11)年10月号
初出:「新青年」博文館
1936(昭和11)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:noriko saito
2008年10月23日作成
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