》を外した。その船は、釧路丸ではなかったのだ。
「どうも、仕方がないですな。しかし、違犯行為はありませんか?」
「まア見てやって下さい。間違いないようですよ」
 やがて捕鯨船は、両の舷側に大きな獲物を浮袋のようにいくつも縛りつけて、悠々と引きあげて行った。
 鯨群は、再び浮き上って進みはじめた。隼丸は、もう一度根気のよい尾行を続ける。
 それから、しかし、一時間しても、第二の捕鯨船は現れない。東屋氏の眉宇《びう》に、ふと不安の影が掠めた。――もしも、このままで釧路丸が来なかったとしたら、夜が来る。夜が来れば、大事な目標の鯨群は、いやでも見失わねばならない。東屋氏はジリジリしはじめた。
 ところが、それから三十分もすると、その不安は、見事に拭われた。左舷の斜め前方に、とうとう岩倉会社特有の、灰色の捕鯨船が現れたのだ。うっかりしていて、最初船長がそれを発見《みつ》けた時には、もうその船は鯱《しゃち》のような素早さで、鯨群に肉迫していた。
 隼丸は、あわてて速度を落す。幸い向うは、獲物に気をとられて、こちらに気づかないらしい。益々近づくその船を見れば、黒い煙突には○のマークが躍り、船側《サイド》には黒くまぎれもない釧路丸の三文字が、鮮かにも飛沫に濡れているのだった。
 ダーン……早くも釧路丸の船首には、銛砲《せんぽう》が白煙を上げた。東屋氏が合図をした。隼丸は矢のように走りだした。
「おや」と船長が固くなった。「あいつ、犯《や》っとるな。仔鯨撃ちですよ」
「恐らく常習でしょう」東屋氏が云った。
 釧路丸では、ガラガラと轆轤《かぐらさん》に銛綱《せんこう》が繰《く》られて、仔鯨がポッカリ水の上へ浮上った。するとこの時、前檣《マスト》の見張台にいた男が、手を振ってなにやら喚き出した。近づく隼丸に気づいたのだ。と、早くも釧路丸は、ググッと急角度で左舷に迂廻しはじめた。
 隼丸の前檣《マスト》に「停船命令」の信号旗が、スルスルと上った。時速十六|節《ノット》の隼丸だ。――捕鯨船は、戦わずして敗れた。
 近づいてみると、鯨群は思ったよりも大きかった。逃げもせずにうろうろしているその鯨達の中に、諦めて大人しく止ってしまった釧路丸へ、やがて隼丸が横づけになると、東屋氏、署長、丸辰を先頭にして、警官達が雪崩《なだ》れ込んで行った。釧路丸の水夫達は、ただの違法摘発にしては少し大袈裟過ぎるその陣立てを見て、ひどくうろたえはじめた。が、直ぐに警官達に依って包まれてしまった。
 東屋氏は、署長、丸辰を従えて、船橋《ブリッジ》へ馳け登って行った。そこには運転手らしい男が、逃げまどっていたが、東屋氏が、
「船長《マスター》を出せ!」
 と叫ぶと、
「知らん!」
 と首を振って、そのまま甲板《デッキ》へ飛び降りた。が、そこで直ぐに警官達と格闘が始った。その様を見ながら、どうしたことかひどくボケンとしてしまった丸辰を、東屋氏はグイグイ引張りながら、船長の捜査を始めだした。
 船長室にも無電室にもみつからないと、東屋氏は、船橋《ブリッジ》を降りて後甲板の士官室へ飛込んだ。が、いない。直ぐ上の、食堂にも、人影はない。――もうこの上は、船首《おもて》の船員室だけだ。
 東屋氏は、丸辰と署長を連れて、前甲板のタラップを下り、薄暗い船員室の扉《ドア》の前に立った。耳を澄ますと、果して人の息使いが聞える。東屋氏は、すかさず扉《ドア》をサッと開けた。――ガチャンと音がして、室《へや》の中の男が、ランプにぶつかって大きな影をゆららかしながら、向うへ飛び退《の》いて行った。けれども次の瞬間、激しく揺れ続ける吊ランプの向うで、壁にぴったり寄添いながら、眼を瞋《いか》らし、歯を喰いしばって、右手に大きな手銛を持ってハッシとばかりこちらへ狙いをつけたその船長《マスター》を見た時に、丸辰がウワアアと異様な声で東屋氏にだきついた。銛が飛んで、頭をかすめて、後ろの壁にブルンと突刺さった。が、署長の手にピストルが光って、直ぐに手錠のはまる音が聞えると、丸辰が顫え声を上げた。
「そ、その男は、死んだ筈の、北海丸の船長《マスター》です!」とゴクリと唾を呑み込んで、肩で息をしながら、「そ、それだけじゃアない……いやどうも、さっきから変だと思ったが、あの運転手も、それから、甲板《そと》で捕まった水夫達も、ああ、あれは皆んな、死んだ筈の北海丸の乗組員です!」
「な、なんだって?」あとから飛び込んで来ていた隼丸の船長が、蒼くなって叫んだ。「飛んでもないこった。じゃア、いったい、それが本当だとすると、釧路丸の船員達は、どうなったんだ?」
 するとこの時、いままで黙っていた東屋氏が、振返って抜打ちに云った。
「釧路丸は、日本海におりますよ」
「え※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
 船長がタジタジとなった。

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