には、もう老配達夫は秋森家の表門へ向って馳け出していた。雄太郎君も直ぐにその後を追った。けれども二人が表門に達した時にはもう二人の怪しげな男の姿はどこにも見当らなかった。黒い大きな塊に見えたのは案にたがわず這うようにして俯向きに崩打《たお》れたまま虫の息になっている被害者の姿だった。見るからに頸の白い中年の婦人だ。鋪道の上にはもう赤いものが流れ始めている。郵便屋はすっかり狼狽し屈み腰になって女を抱きおこしながら雄太郎君へあちらを追え! と顎をしゃく[#「しゃく」に傍点]ってみせた。
 秋森家の表を緩やかな弧を描いて北側へカーブしている一本道の六間道路は、秋森家の石塀の西端からその石塀と共にグッと北側へ折曲っている。雄太郎君は夢中でその右曲りの角へ馳けつけると、体を躍らすようにして向うの長い道路をのぞき込んだ。その道路の右側は秋森家の長い石塀だ。左側は某男爵邸の裏に当る同じような長い高い煉瓦塀だ。恐らく隠れ場所とてない一本道――。だが、犯人はいない!
 犯人の代りに通りの向うから、一見何処かの外交員らしい洋服の男がたった一人、手に黒革のカバンを提げてやって来る。雄太郎君は馳けよると、すかさず訊ねた。
「いまこの道で、白い浴衣を着た二人の男に逢いませんでしたか?」
「………」男は呆気にとられ瞬間黙ったまま立竦《たちすく》んでいたが、意外にも、すぐに強く首を横に振りながら、
「そんな男は見ませんでした。……なにか、あったんですか?」
「そいつア困った」と雄太郎君は明かにどぎまぎしながら投げ出すように、「いま、この秋森さんの門前で人殺し……」
「なんですって!」男は見る見る顔色を変えて「人殺しですって! いったい、誰が殺《や》られたんです?」と引返す雄太郎君に並んで馳けだしながら、とぎれとぎれに云った。
「私は、この秋森の差配人で、戸川弥市《とがわやいち》って者です」
 けれどもすぐに石塀を折曲って秋森家の門前が見えると、二人はそのまま黙って馳け続けた。そして間もなく郵便屋に抱き起こされて胸の傷口へハンカチを押当られたままもうガックリなっている女を見ると、洋服の男は飛びかかるようにして、
「あ、そめ子!」
 と、そしてものに憑かれたように辺りをキョロキョロ見廻しながら、
「……こ、これは私の家内です……」
 そう云ってべったり坐り込んで了った。
 曲角《まがりかど》の向うから、気狂いじみたチンドン屋の馬鹿騒ぎが、チチチンチチチンと聞えて来た。


          二

 それから数分の後。N町の交番だ。
 新米の蜂須賀《はちすか》巡査は、炎熱の中に睡魔と戦いながら、流石《さすが》にボンヤリ立っていた。
 そこへ一人のチンドン屋が、背中へ「カフェー・ルパン」などと書いた看板を背負い、腹の上に鐘や太鼓を抱えたまま息急《いきせき》切って馳け込んで来ると、いま秋森家の前を通りかかったところが、恐ろしい殺人事件が起きあがっていた事、死人の側には三人の男がついていたが、ひどく狼狽している様子だったので、取りあえず自分が知らせに来た事、などを手短に喋り立てた。殺人事件! 蜂須賀巡査は電気に打たれたようにキッとなった。時計を見る。三時十分前だ。取りあえず所轄署へ電話で報告をすると、そのまま大急ぎでチンドン屋を従えて馳けだした。
 現場には、もう例の三人の他に、秋森家の女中やその他数人の弥次馬が集っていた。蜂須賀巡査の顔を見ると、いままで弥次馬共を制していた雄太郎君が進み出て、被害者の倒れていた地点から約五間程西へ隔った塀沿いの路上から拾い上げたと云う、血にまみれたひとふりの短刀を提供した。
 蜂須賀巡査は早速証人の下調べに移った。
「……じゃあ、つまりなんだね……吉田君がこちらから、その浴衣を着た二人の男を追って行く。向うから戸川さんがやって来る。ふむ、つまり、挟撃《はさみう》ちだ。而《しか》も道路は、一本道!……ところが、犯人はいない?……すると……」
 蜂須賀巡査は眉根に皺を寄せ下唇を噛みながら、道路の長さを追い始めた。が、やがてその視線が、秋森家の石塀の、曲角に近い西の端に切抜かれた勝手口の小門にぶつかると、じっと動かなくなってしまった。が、間もなく振り返ると、微笑を浮べながら二人の証人を等分に見較べるようにした。勿論雄太郎君も戸川差配人も、すぐに蜂須賀巡査の意中を悟って大きく頷いた。
「困ったことですが」と差配人の戸川が顔を曇らしながら云った。「どうも其処より他に抜け口はございません」
 そこで蜂須賀巡査は意気込んで馳けだし、勝手口の扉《と》をあけて屋敷の中へ這入って行った。が、やがてその扉口《とぐち》から顔を出すと、勝誇ったように云った。
「ふむ。図星だ。足跡がある!」
 恰度この時、司法主任を先頭にして物々しい警察官の一隊が到着した。
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