警官が、蝉《せみ》をつかまえるようにして捕えたのだ。「怪我人」は「歌姫」と違って少しばかり抵抗した。が、直ぐに大人しくなって本署へ連れて行かれた。
 この報告を線路の踏切小屋の近くで受取った司法主任は、駈けつけた警官に向って直ちに口を切った。
「で、その気狂いは、着物かどこかに血をつけていなかったか?」
「ハア、少しも着けていません。ただ、どこかへ寝転んでいたと見えて、頭の繃帯へ藁《わら》屑みたいなものを沢山つけていました」
 すると司法主任は、傍の松永博士とチラッと顔を見合わせて笑いながら、
「よし。じゃアその気狂いを、赤沢脳病院まで送り届けてくれ。穏やかに扱うんだぞ」
「ハァ」
 警官が去ると、主任は博士と並んで、再び線路伝いに暗《やみ》の中を歩きはじめた。
「いよいよ、判って来ましたな」
 博士が云った。
「全く……」主任が大きく頷いた。「それにしても、いったいどこへ潜り込んだのでしょうナ」
 あちらこちらの暗《やみ》の中で、時々警官達の懐中電燈が、蛍のように点《つ》いては消え点いては消えした。
 だが、十分と歩かない内に、突然前方の線路の上らしい闇の中から、懐中電燈が大きく弧を描いて、
「……ゥあーい……」
 と叫び声が聞えて来た。
「どうしたーッ」司法主任が思わず声を張りあげた。
 すると続いて向うの声が、
「主任ですかァ?……ここにおります。死んでおります!……」
 こちらの二人は一目散に駈けだした。
 間もなく警官の立っているところまで駈けつけると、主任はそこで、とうとう恐ろしい場面にぶつかってしまった。
 線路の横にぶっ倒れた「トントン」は、恰度レールを枕にするようにしてその上へ頭をのっけていたらしいが、既にその頭は無惨にも、微塵に轢《ひ》き砕かれて辺りの砂利の上へ飛び散っていた。

 やがて「トントン」の屍骸をとりあえず線路の脇へとり退《の》けると、主任と博士は早速簡単な検屍をはじめた。が、間もなく主任は堪えかねたように立上ると、誰にもなく呟いた。
「いやどうも、ジツに恐ろしい結末ですなァ……」
 すると、まだ「トントン」の屍骸の前へ蹲《うずくま》るようにして、頻《しき》りにその柔かな[#「柔かな」に傍点]両足の裏をひねくり廻していた博士が、不意に顔をあげた。
「結末?」
 と、鋭く詰《なじ》るように云って、博士は、だがひどく悄然と立上った。
 どうしたことか今までとは打って変って、その顔色はひどく蒼褪《あおざ》め、烈しい疑惑と苦悶の色が、顔一パイに漲《みなぎ》っていた。
「待って下さい……」
 やがて博士が呻くように云った。そして苦り切って顔を伏せると、惑《まど》うように暫くチラチラと「トントン」の屍骸を見遣《みや》っていたが、やがて思い切ったように顔を上げると、
「そうだ、やっぱり待って下さい。……貴方はいま、結末、と云われましたね?……いやどうも、私は、飛んでもない思い違いをしたらしい……主任さん。どうやらまだ、結末ではなさそうですよ」
「な、なんですって?」
 とうとう主任は、堪りかねて詰めよった。すると博士は、主任の剣幕にはお構いなく、再びチラッと「トントン」の屍骸を見やりながら、妙なことを云った。
「ところで、赤沢院長の屍体は、まだあの脳病院に置いてありますね?」

          四

 それから二十分程のち、松永博士は殆ど無理遣《むりやり》に司法主任を引張って、赤沢脳病院へやって来た。
 夜の禿山では、雑木の梢が風にざわめき、どこかで頻《しき》りに梟《ふくろ》が鳴いていた。
 博士は、母屋で鳥山宇吉をとらえると、院長の屍体を見たい旨を申出た。
「ハイ、まだお許しがございませんので、お通夜も始めないでおります」
 云いながら宇吉は、蝋燭に火をともして病舎のほうへ二人を案内して行った。
 二号室の前を通ると、部屋の中から、帰って来た「歌姫」のソプラノが、今夜は流石に呟くような低音で聞えていた。三号室の前まで来ると、電気のついた磨硝子《すりガラス》の引戸へ大きな影をのめらして、ガラッと細目に引戸を開けた「怪我人」が、いぶかしげな目つきで人々を見送った。四号室から先方《さき》は電気が廃燈になっているので、廊下も真暗だ。
 宇吉は蝋燭の灯に影をゆらしながら、先に立って五号室へはいって行った。
「まだ棺が出来ませんので、こんなお姿でございます」
 宇吉は云いながら、蝋燭を差出した。
 院長の屍骸は、部屋の隅に油紙を敷いて、その上に白布をかぶせて寝かしてあった。博士は無言で直ぐにその側へ寄添うと、屈み込んで白布をとり退《の》けた。そして屍骸の右足をグッと持ちあげると、宇吉へ、
「灯《あかり》を見せて下さい」
 と云った。
 顫える手で、宇吉が蝋燭を差出すと、博士は両手の親指で、屍骸の足裏をグイグイと揉みはじめた。揉みはじめたのだがその足裏は、どうしたことかひどく硬くて凹《へこ》まない。どうやら大きな胼胝《たこ》らしい。博士は、今度はもう少し足を持ちあげて、その拇《おや》指の尖端《さき》を灯の前へ捻《ね》じ向けるようにした。灯に向けられたその拇指は、だがなんと、大きく脹《ふく》れあがって、軽石のようにコチコチだ。
 途端に宇吉が、蝋燭を落した。
 不意にあたりが真暗になった。そしてその真ッ暗な闇の中で、泣くとも喚くとも判ちぬ世にも恐ろしげな宇吉の声が、
「……ゥあああ……そ、それァ、『トントン』の足ですゥ!……」
 けれどもその声が止むか止まぬに、もうひとつ別の、松永博士の、鋭い擘《つんざ》くような叫び声が、激しい跫音と共に、闇の中を転ろげるように戸口のほうへつッ走った。
「主任ッ! 直ぐ来て下さいッ!」
 続いて廊下で、激しい跫音が入乱れたかと思うと、なにかが引戸へぶつかって、ジャリンとガラスの砕ける音――
 おッ魂消《たまげ》た司法主任が、夢中で廊下へ飛び出ると、二つの争う人影が、三号室の前で四ツに組んで転《ころが》っている。駈けつけて、戸惑って、だが直ぐ頭の白い繃帯を目標《めじるし》に、二十貫の主任の巨躯が、そっちへガウンと[#「ガウンと」はママ]ぶつかっていった。
「怪我人」は直ぐに捕えられた。手錠を嵌《はめ》られると、不貞腐《ふてくさ》れてその場へベタンと坐り込み、まるで夢でも見たように、妙に浮かぬ顔をして眼をパチパチやり出した。
 松永博士は、腰を揉みながら立上ると、片手でズボンの塵《ちり》を払い払い、
「私は、格闘したのは、これが始めてです」
 司法主任は、とうとう堪りかねて、
「いったい、こ、これァ、どうしたと云うんです?」
 すると博士は「怪我人」の方を見ながら、
「ふン。トボケてるね。……ほんとにトボケてるのか、わざとトボケてるのか、これから実験して見ましょう」
 そう云って「怪我人」の前へ屈み込むと、眼だけ覗いている繃帯頭の顔を、ジーッと睨みつけた。
「怪我人」が再びもがき始めた。
「主任さん。しっかり捕まえていて下さい」
 そう云って博士が、「怪我人」の頭へサッと両手を差伸べると、相手は俄然、死物狂いで暴れだした。主任は、ムキになって押えつける。とうとう二人は力余って立ってしまった。博士も続いて立上ると、容赦なく頭の繃帯を解きはじめた。白い長いその布が、暴れながらも段々ほどけて、下から……顎……鼻……頬……眼! と、いままで博士の後ろで立竦《たちすく》んでいた宇吉が、肝を潰《つぶ》したように叫んだ。
「ややッ……これは先生ッ!」
 ――まったく、皆んなの前には、死んだ筈の赤沢医師が、蒼い顔をしてつッ立っていた。

 警察から差廻された自動車の中で、松永博士は云った。
「――こんな狡猾な犯罪は、聞いたことがありませんね。……いつも『脳味噌をつめ替えろ』と叱られた狂人が、とうとう狂人らしい率直さから、その教えを実行してしまった、と見せかけて、実は逆に狂人のほうを殺して、自分が死んだような振りをするなんて……成る程、荒療治で脳味噌をとったりすれば、顔なぞ誰の顔だか判らなくなってしまいますからね。着物をとり替えて置きさえすれば、それでいいんですよ……だが院長、『トントン』と『怪我人』の屍体を間違えるなんて、えらい失敗をやったもんですね。……え? ああ、銘酒屋の女将の見た男は、『トントン』じゃアなくてむろん院長ですよ。誰かにああ云う場面を見せて置いて、線路へ来ると、予《あらかじ》め殺して置いた『怪我人』の頭を、いかにも脳味噌をつめ替えるために『トントン』が自身でしたように見せかけて、汽車に轢《ひ》かしたわけでしょう。この辺は流石《さすが》にその道の人だけあって、狂人の心理を巧みにとらえていますよ。だが『怪我人』を殺して置いて、その癖自分で、事件の結末を早く完全につけるために、『怪我人[#「怪我人」に傍点]』に化けて[#「に化けて」に傍点]わざと一時捕まったから、いけないんですよ。そうすれば、いやでも私達は、線路で死んだ男を『トントン』だと思うんですからね。思うだけならいいんですが、その『トントン』の足裏に、畳を凹《へこ》ますほどにいつも擦りつけていたその足裏に、胼胝《たこ》がなかったりして、駄目になったんです。……そうだ、あれは、先に病院で『怪我人』の方を殺して、線路のところで『トントン』を殺すと、完全に成功しましたよ。そして二、三日のうちに、どこからか引取人が来たとでも云って、贋《にせ》の『怪我人』は、赤沢脳病院から永久に姿を消す……それから、一方赤沢未亡人は、病院を整理して物件を金に代え……そうだ、きっとあの院長には、莫大な生命保険もついてますよ……そして金を握った未亡人は、独りでどこか人に知れない片田舎へ引越して行く……そしてそこで、死んだ筈の主人とうまく落合う……おおかた、そんな風にするつもりじゃアなかったでしょうかね。……いやとにかく、あの院長も気の毒な位いあせっていたらしいが、しかしどうも、ああ云う無邪気な連中を囮《おとり》に使ってのこんな惨酷な仕事には、好意はもてませんね」
 博士はそう云って司法主任の顔を見たが、ふとなにかを思い出して、いまいましそうな顔をしながら、ちょっと威厳をつくろって附加えた。
「いやしかし、いずれにしてもこの事件には、教えられるところが多々ありますよ……誰でも、気をつけなければいけませんな」
[#地付き](「新青年」昭和十一年七月号)



底本:「とむらい機関車」国書刊行会
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「新青年」博文館
   1936(昭和11)年7月号
初出:「新青年」博文館
   1936(昭和11)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:川山隆
2009年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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