かけら》でつけたものであろう、顔から頭へかけて物凄い掻傷《かききず》が煮凝《にこごり》のような血を吹き、わけても正視に堪えぬのは、前額から頭蓋へかけてバックリ開いた大穴から、なんと脳味噌が抜きとられて頭の中は空っぽだ。とられた脳味噌はどこへ行ったか、辺りには影も形もない……

          二

 急報を受けたM市の警察署から、司法主任を先頭に一隊の警官達が赤沢脳病院に雪崩《なだ》れ込んだのは、それから二十分もあとのことだった。
 司法主任吉岡警部補は、すっかり上《あが》ってしまった鳥山宇吉から一通りの事情を訊きとると、取りあえず部下の警官を八方に走らして、脱走した三人の狂人の捜索逮捕を命じた。
 間もなく検事局の連中がやって来ると、直ちにテキパキした現場の検証や、予審判事の訊問が始まった。宇吉、赤沢夫人、女中の三人は、気も心も転倒したと見えて、最初のうちしどろもどろな陳述で係官を手古摺《てこず》らしたが、それでも段々落つくに従って、赤沢脳病院の現状からあのいまわしい雰囲気、院長の荒《すさ》んだ日常、そして又三人の狂人の特長性癖等に就いて、曲りなりにも問わるるままに答えて行った。
 一方警察医の意見によると、院長の死は午前四時頃と推定され、その時刻には家人はまだ睡《ねむ》っていて、物音なぞは聞かなかったこと。院長はいつも早起きで、寝巻のままで体操や散歩をする習慣であったこと等々も判って来た。
 ひと通りの調査が終ると、検事が司法主任へ云った。
「とにかく犯行の動機は明瞭です。問題は、三人の気狂いの共犯か、それとも三人の内の誰かがやって、あとは扉《と》が開いてるを幸いそれぞれバラバラに飛び出してしまったか、の二つです。ところで、犯人の逮捕に、警官は何名向けてありますか?」
「取りあえず五名向かわしました」
「五名?」と検事は顔を顰《しか》めて、「それで、なんとか情報がありましたか?」
「まだです」
「そうでしょう。五名じゃアとても手不足だ。だいたい逃げ出した気狂いは三人でしょう。それも隠れとるかも判らないし……」
 云いながら検事は、ふと恐ろしい事に気がつくと、みるみる顔を硬張らせながら、あとを続けた。
「そうだ、この場合、捕える捕えないどころの問題じゃアないよ。いや、こいつァ大変なことになる……いいかね、犯人は狂人で三人、それもただの気狂いじゃアなく、突然兇暴化して、なにをしでかすか判らない連中なんだ」
「まったく」と予審判事が青い顔をして割り込んだ。「……そんな奴等が、万一、婦女子の多い市内へでも逃げ込んだら……どうなる?」
「恐ろしいことだ」と検事は声を顫わせながら、司法主任へ云った。「いや全く、ぐずぐずしてはいられない。直ぐに警官を増援してくれ給え。そうだ、全市の交番へも通牒して……」
 吉岡司法主任は、眼の色を変えて、あたふたと母屋の電話室へ駈け込んで行った。
 現場から警察へ、警察から市内の各交番へ……急に引締った緊張が眼苦《めまぐる》しく電話線を飛び交わして、赤沢脳病院の仮捜査本部は色めき立って来た。
 間もなく増援されて来た警官隊は、二手に分けられて一部は市内へ、一部は脳病院の禿山を中心として郊外一帯へ、直ちに派遣されて行った。
 けれども、好もしい情報は仲々やって来なかった。司法主任は苛立たしげに歯を鳴らした。まだこれ以上の兇悪な事件がもちあがらないだけが、せめてもの幸《しあわせ》だった。
 ――だが愚図愚図してはいられない。少しも早く逮捕して、惨事を未然に防がねばならない。そうだ、それにしても、もしも狂人達が人を恐れてどこかへ身を隠したとしたなら、こいつは仲々困難な問題だ。
 そう思うと司法主任は、いよいよじりじりしはじめた。
 ――いったい狂人の気持として、こんな場合、隠れるだろうか? いや、もし隠れるとしたら、いったいどんなところへ隠れるだろうか?……そうだ、こいつァ一寸専門家でなくては判らない。

 正午《ひる》になっても吉報がないと、主任は決心して立上った。そして本部を市内の警察署に移し、留守を署長に預けると、赤沢病院とは反対側の郊外にある、市立の精神病院へやって来た。
 乞《こい》に応じて院長の松永博士は、直ぐに会ってくれた。
「ひどいことをやったもんですね」
 もうどこからか聞込んだと見えて、赭顔《あからがお》の人の好さそうな松永博士はそう云って主任へ椅子をすすめた。
「実はそのことで、早速ですがお願いに上りました」
「まだ、三人とも捕まらないんですか?」
「捕まりません」司法主任は苦り切って早速切りだした。「先生。いったい気狂いなぞ、こんな場合、隠れるでしょうか? それとも……」
「さァ……捕まらないところを見ると、隠れてるんでしょうね」
「では、どんな風に隠れてるんでしょうか?……何ぶん危険な代物で、急ぎますので……」
 すると博士は苦笑しながら、
「難問ですな。しかし、どうもそれは、その患者の一人一人に就いて細かに研究して見なくては判りませんよ。一般にあの連中は、思索も感情も低いんですが、しかし低いながらも色々程度があって、その一人一人には、それぞれ勝手な色彩の理窟があるんです。で、率直に私の意見を申しますと、この場合問題は、何処へ誰がどんな風に隠れたかと云うことよりも、院長殺害が三人の共犯であるか、それとも一人の犯行であるか、と云う点にかかっていると思います。もし一人の犯行だったなら、その犯人は一寸六ヶ敷いが、少くとも残りの二人だけは、今にきっと、興奮が去って腹でも空いたなら、その勝手な隠れ場所からノソノソと出て来ますよ。ナニ興奮さえ去ってしまえば危険はありますまい。が、しかし、これが共犯だと……」
 博士はそう云って椅子へ掛け直ると、急に熱を帯びた口調で後を続けた。
「……共犯だと、一寸困るんです」
「と云いますと?」
 思わず司法主任が乗り出した。
「つまり一人の犯行だった場合に、その犯人だけが一寸無事に出て来にくいと同じ理由で、三人の安否が気遣われるんですよ」
「……判りませんが……どう云うわけで?……」
 主任は六ヶ敷そうに顔を赭《あから》めた。
「なんでもないですよ」と博士はニヤリと笑いながら、「……これは私が、薬屋から聞いたんですが、なんでもあの赤沢さんは、最近ひどく憔悴して、患者を叱る時に『脳味噌をつめ替えろ』と云うような無謀な言葉をよく使われたそうですね」
「それです。それが動機なんです」
「待って下さい。……それで、私の一、二度耳にした限りでは、確か『脳味噌をつめ替えろ』で、『脳味噌をとれ』ではなかったと思います。いいですか、『つめ替えろ』と『とれ』とでは、大分違いますよ」
「……ハァ……」
 主任は判ったような判らぬような、生返事をした。博士は尚も続けた。
「ね。馬鹿は馬鹿なりに、それ相応の理解力があるんですよ。『脳味噌をつめ替えろ』と云われて、利巧な人の脳味噌を抜きとった男が、それから、いったいなにをする[#「なにをする」に傍点]と思います?……」
「……」
 主任は、無言のうちに愕然となって立上った。そして顫える手で帽子を掴むと、思わず松永博士にぴょこんと頭を下げた。
「有難うございました。よく判りました」
 すると博士は快活に笑いながら、
「いや、結構です。では成るべく早く、その可哀相な気狂いが、自分の頭を叩き潰《つぶ》して死ぬようなことのない先に、捕まえてやって下さい」そう云って立上りながら、博士はつけ加えた。「この事件には、教えられるところが多々ありますよ……誰でも、気をつけなければいけません……」

          三

 精神病院を引きあげた吉岡司法主任は、それでも何故か気持が楽だった。
 松永博士の教えに従えば、脱走した狂人が一般人へ対して暴行すると云う危険性が、いくらかでも緩和されたわけだ。三人の狂人、或はその内の一人は、もう他人を傷付けることよりも、まず抜き取って来た「先生」の脳味噌を、自分のそれと取替えることに夢中になっているのだ。だが、なんと云う気狂いじみた恐ろしいことだ。
 吉岡司法主任は、一つの不安が去った代りに、もう一つの別の恐怖に冷汗をかきながら、本部に収《おさま》ると、やっきになって捜査の采配を振りつづけた。
 だが、流石《さすが》に専門家の鑑定は見事に当って、やがて司法主任の努力は、段々|酬《むく》いられて来た。
 まず、その日の夕方になって、脱走狂人の一人「歌姫」が、とうとう火葬場の近くで捕えられた。松永博士の推断通り興奮の鎮まった「歌姫」は西の空が茜色《あかねいろ》に燃えはじめると、火葬場裏の雑木林の隠れ家から例のせつなげなソプラノを唄い出したのだ。それを聞きつけた気の利いた用心深い私服巡査の一人が、近寄ってバチバチと手を拍《たた》いた。すると「歌姫」は瞬間唄い止《や》んで、暫く疑ぐるような沈黙をみせたが、直ぐに安心したように再び悩ましげに唄いはじめた。巡査はもう一度拍手を送った。今度は直ぐにアンコールだ。再び拍手。そしてアンコール。果ては笑声さえ洩れだして、二人の距離はだんだん縮まり、案外わけなく捕えられてしまった。
 女の着物を着た「歌姫」が、自動車でステージならぬ警察へ連行されて来ると、司法主任は勇躍して訊問にとりかかった。が、直ぐにその相手が、到底自分の手におえられるようなただの代物でないことに気のついた司法主任は、松永博士のところへ電話を掛けた。
 博士は、病院を退《ひ》けてから、見舞いかたがた赤沢脳病院へ出向いていたが、主任の電話を受けると直ぐに来てくれた。そして事情を聞きとると、真先に「歌姫」を捕えた警官の機智を褒め上げた。
「いや大変結構でした。とにかくこう云う人達を扱うには、決して刺戟を以ってしてはいけません。柔かく、真綿で首を締めるように、相手と同じレベルに下って、幼稚な感情や思索の動きに巧《たくみ》にバツを合せて行かなければいけません」
 博士はそれから、「歌姫」を相手にして暫く妙な問答をしながら、それとなく鋭い眼で相手の身体検査をするらしかったが、直ぐに向き直って司法主任へ云った。
「この男は犯人ではありません。どこにも血がついていません。あれだけの惨劇を狂人がしでかして、こんなに綺麗でいる筈はありません。……やはり共犯ではなく、残りの二人のうちの誰かがやったんでしょう。とにかく、この男は、もう元の住家へ返してもよろしい」
 そこで博士の指図通り、「歌姫」は無事に赤沢脳病院へ連れ戻されて行った。
 そして司法主任は、残る「トントン」と「怪我人」の捜査に全力を注ぎはじめた。
 ところが、それから一時間としない内に、松永博士の恐ろしい予言が、とうとう事実となって報告されて来た。
 それは――M市の場末に近い「あづま」と呼ぶ土工相手の銘酒屋の女将《おかみ》が、夜に入って、銭湯へ出掛けようとして店の縄暖簾《なわのれん》を分けあげた時に、暗い道路の向うからよろよろとやって来た男があったが、近付くのを見ると女将はキャッと声を上げた。着物の前をはだけた中年の男で、顔中血だらけにして両の眼を異様に据えつけたまま、お地蔵様のように捧げた片手の掌《て》の上に、なにか崩れた豆腐のようなものを持って見るからに蹌踉《そうろう》とした足取りで線路の方へ消えて行った、と云うのだった。
 それを「あづま」の女将から聞込んだ警官の報告を受取ると、司法主任は蒼くなって立上った。そして松永博士に同行を乞うと、そのままとりあえず場末の銘酒屋まで車を走らせた。
 そこで女将からもう一度前記の報告を確めると、狂人が消えて行ったと思われる線路の方角一帯に亘って急速な捜査をしはじめた。

 恰度その頃、松永博士の所謂「興奮の鎮まって腹の空く時期」とでも云うのがやって来たのか、市内を縦貫しているM川の附近で、もう一人の狂人が捕えられた。
 顔から頭へかけて繃帯をグルグル巻きにした「怪我人」で、恰度「歌姫」が出現した時のようにふらふらと橋の上へ立現われて、ひどく弱り切った風情で暗い水面を覗きこんでいた。それを通行人から報せを受けた
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