はじめた。揉みはじめたのだがその足裏は、どうしたことかひどく硬くて凹《へこ》まない。どうやら大きな胼胝《たこ》らしい。博士は、今度はもう少し足を持ちあげて、その拇《おや》指の尖端《さき》を灯の前へ捻《ね》じ向けるようにした。灯に向けられたその拇指は、だがなんと、大きく脹《ふく》れあがって、軽石のようにコチコチだ。
 途端に宇吉が、蝋燭を落した。
 不意にあたりが真暗になった。そしてその真ッ暗な闇の中で、泣くとも喚くとも判ちぬ世にも恐ろしげな宇吉の声が、
「……ゥあああ……そ、それァ、『トントン』の足ですゥ!……」
 けれどもその声が止むか止まぬに、もうひとつ別の、松永博士の、鋭い擘《つんざ》くような叫び声が、激しい跫音と共に、闇の中を転ろげるように戸口のほうへつッ走った。
「主任ッ! 直ぐ来て下さいッ!」
 続いて廊下で、激しい跫音が入乱れたかと思うと、なにかが引戸へぶつかって、ジャリンとガラスの砕ける音――
 おッ魂消《たまげ》た司法主任が、夢中で廊下へ飛び出ると、二つの争う人影が、三号室の前で四ツに組んで転《ころが》っている。駈けつけて、戸惑って、だが直ぐ頭の白い繃帯を目標《めじるし》に、二十貫の主任の巨躯が、そっちへガウンと[#「ガウンと」はママ]ぶつかっていった。
「怪我人」は直ぐに捕えられた。手錠を嵌《はめ》られると、不貞腐《ふてくさ》れてその場へベタンと坐り込み、まるで夢でも見たように、妙に浮かぬ顔をして眼をパチパチやり出した。
 松永博士は、腰を揉みながら立上ると、片手でズボンの塵《ちり》を払い払い、
「私は、格闘したのは、これが始めてです」
 司法主任は、とうとう堪りかねて、
「いったい、こ、これァ、どうしたと云うんです?」
 すると博士は「怪我人」の方を見ながら、
「ふン。トボケてるね。……ほんとにトボケてるのか、わざとトボケてるのか、これから実験して見ましょう」
 そう云って「怪我人」の前へ屈み込むと、眼だけ覗いている繃帯頭の顔を、ジーッと睨みつけた。
「怪我人」が再びもがき始めた。
「主任さん。しっかり捕まえていて下さい」
 そう云って博士が、「怪我人」の頭へサッと両手を差伸べると、相手は俄然、死物狂いで暴れだした。主任は、ムキになって押えつける。とうとう二人は力余って立ってしまった。博士も続いて立上ると、容赦なく頭の繃帯を解きはじめた。白い長いその布が、暴れながらも段々ほどけて、下から……顎……鼻……頬……眼! と、いままで博士の後ろで立竦《たちすく》んでいた宇吉が、肝を潰《つぶ》したように叫んだ。
「ややッ……これは先生ッ!」
 ――まったく、皆んなの前には、死んだ筈の赤沢医師が、蒼い顔をしてつッ立っていた。

 警察から差廻された自動車の中で、松永博士は云った。
「――こんな狡猾な犯罪は、聞いたことがありませんね。……いつも『脳味噌をつめ替えろ』と叱られた狂人が、とうとう狂人らしい率直さから、その教えを実行してしまった、と見せかけて、実は逆に狂人のほうを殺して、自分が死んだような振りをするなんて……成る程、荒療治で脳味噌をとったりすれば、顔なぞ誰の顔だか判らなくなってしまいますからね。着物をとり替えて置きさえすれば、それでいいんですよ……だが院長、『トントン』と『怪我人』の屍体を間違えるなんて、えらい失敗をやったもんですね。……え? ああ、銘酒屋の女将の見た男は、『トントン』じゃアなくてむろん院長ですよ。誰かにああ云う場面を見せて置いて、線路へ来ると、予《あらかじ》め殺して置いた『怪我人』の頭を、いかにも脳味噌をつめ替えるために『トントン』が自身でしたように見せかけて、汽車に轢《ひ》かしたわけでしょう。この辺は流石《さすが》にその道の人だけあって、狂人の心理を巧みにとらえていますよ。だが『怪我人』を殺して置いて、その癖自分で、事件の結末を早く完全につけるために、『怪我人[#「怪我人」に傍点]』に化けて[#「に化けて」に傍点]わざと一時捕まったから、いけないんですよ。そうすれば、いやでも私達は、線路で死んだ男を『トントン』だと思うんですからね。思うだけならいいんですが、その『トントン』の足裏に、畳を凹《へこ》ますほどにいつも擦りつけていたその足裏に、胼胝《たこ》がなかったりして、駄目になったんです。……そうだ、あれは、先に病院で『怪我人』の方を殺して、線路のところで『トントン』を殺すと、完全に成功しましたよ。そして二、三日のうちに、どこからか引取人が来たとでも云って、贋《にせ》の『怪我人』は、赤沢脳病院から永久に姿を消す……それから、一方赤沢未亡人は、病院を整理して物件を金に代え……そうだ、きっとあの院長には、莫大な生命保険もついてますよ……そして金を握った未亡人は、独りでどこか人に知れない片田舎へ引
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