でも深谷氏のこの奇妙な海への憧れは己れの住《すま》う家の構えや地形のみではあきたらず、日常生活の服装から食事にまでも海の暮しをとりいれて、はては夫人召使から時折この家を訪なう外来の客にいたるまで己れを呼ぶにキャプテンの敬称を強要すると云う、それはまるで海の生活を殆んどそのまま地獄の果までも引っ提げて行こうほどの激しいひたむきな執念だった。されば既に還暦を越した老紳士で人柄としては無口な穏かな人でありながら、家庭と云うものにかけてはまことに冷淡で、わけてもひとつの妙な癖を持っていてしばしば家人を困らしていたとのこと。それはひとくちに云えば並はずれたヨット狂で、それも朝から晩まで附近の海を我がもの顔に駈け廻ると云う程度のものではなく、夜になって辺りが闇にとざされる頃から青白い海霧《ガス》が寒《さ》む寒《ざ》むと立てこむ夜中にかけて墨のような闇の海を何処《どこ》をなにしにほっつき廻るのか家人が気を揉んで注意をしても一向に聞きいれないとのこと。もっとも私のところへ取りに寄来《よこ》した薬と云うのが凡て主人の使うもので、それが皆一種の解熱剤であるのを見ても、大分《だいぶん》無理な夜更しでもするらしいのは判っていたのだが、それならば私がその折召使に伝言《ことづけ》した忠告も、恐らく家人の注意と同じように聞き捨てられたに違いない。可哀想に、年老いた頑《かたく》なキャプテン深谷氏は、そうして我れと我が命を落すような怪我《あやまち》をしでかしたのではあるまいか。老人がそのような夜更しをするさえ既に危険であるのに、殊にこの辺りの海は夜霧が多く話に聞けば兇悪な大|鱶《ふか》さえも出没すると云う。私は、夫人の慌だしい招きの電話を思い出しながら、きっとこの予感は外れていないように思われるのだった。ともあれ私達は急がねばならない。
 やがて私達は石ころの多い代赭《たいしゃ》色の、美しい岬の坂道にかかった。ちょうど日曜日で久々に訪ねてくれた水産試験所の東屋三郎《あずまやさぶろう》氏は、折角計画した遠乗りのコースをこのような海岸に変更されて最初のうち少からず鬱《ふさ》いでいたのだが、けれども途々キャプテン深谷氏に関する私の貧弱な説明を聞き、いま又こうして奇妙な岬の深谷邸を眺めるに及んで、はやくも心中にいつもの好奇の病が首を起したのか、いまはもう私の先に立って進みはじめた。
 私達の乗った馬は、倶楽
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