配してこっそり様子を見に参りました私は、そこで主人の、物に怯えるような独言《ひとりごと》を聞いたのでございます」
「どんなことです?」
私は思わず急《せ》き込んだ。
「はい、あの、恰度私の聞きましたのは、なんでも主人が、こう卓を叩いて、うわずった声で、『明日《あす》の午后《ひる》だ、明日の午后《ひる》までだ』と、それから低い声で、怯えるように、『きっとここまでやって来る』とそれだけでございますが……それから急に主人は、さもじっとしていられないように立上って室《へや》を出て来たのでございますが、恰度そこに立っていました私を見つけますと、一層不機嫌になりまして、いままでついぞ口にしたこともないような卑しい口調で、お前達の知ったことではないと云うように叱りつけるのでございます……でも先生。まさかこのようなことになろうなぞとは、存じもよりませんでしたので、それに……こんなことを申上げるのもお恥かしい次第でございますが、あのひとは、平常《ふだん》から邪険な、変った人でございますので、逆らわないに限ると思いまして、心ならずもそのまま自室《へや》へ下って、先に寝《やす》んだのでございます……それが、もう今朝は、こんなことになりまして……」
夫人はここで始めて眼頭に光るものを見せると、堪え兼ねたように面《かお》を伏せてしまった。
私達は、顔を見合せて、席を外すことにした。
廊下に出ると、私は東屋氏に寄りそうようにして云った。
「……驚いたねえ……大変なことになったものだ」
すると東屋氏は、考え深そうに、小声で云った。
「深谷氏の怖れていた奴が、明日の午後、つまり今日、でなくて昨夜やって来たわけだな」とそれから急に改まって、「君、警察の連中が此処へ着くまでには、まだまだ時間があるよ。遠い凸凹《でこぼこ》道だから、三時間は充分かかる。ね、ヨットを見せて貰おう。昨夜深谷氏が乗ったと云うその問題のヨットだ。……僕はなんだか、ひどくこの事件に興味を覚えるよ」
そう云って彼は、私の肩に手をかけた。
本来私は、余り好事家《ものずき》のほうではないつもりだが、東屋氏にこう誘われると、どうしたものか理性より先に口のほうが「うん、よし」と返事をしてしまった。
そこで私達は来合せた洋吉氏に断って玄関《ポーチ》へ出ると、下男に案内を頼み、岬の崖道を下って岩の多い波打際に降り立った。
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