け、そいつを不安げに己れの口へ持って行った。が、瞬間ギクッとなって飛び上った。
考えて見れば、天盤も崩落も、火災も地下水も、炭坑にとってはつきものである。滝口坑にしてからが、いつかはそうしたこともあろうかと、最善の防禦と覚悟が用意されていたのであるが、そして又そうした用意の前には、決して恐るるに足りない物なのであるが、しかしいま、係長の舌の上に乗ったこの水一滴こそは、実に滝口坑全山の死命を決するものであった。もはや如何なる手段も絶対に喰止めることの出来ないその水は、地下水でもなければ、瓦斯《ガス》液でもない。それは至極平凡な、ただの塩水であった。
「失敗《しま》った!」
最初の海の訪れを口にした係長は、思わず顫え声で叫んだ。
「こいつは人殺しどころではない。とうとう海がやって来たのだ!」
ところが、こうした大事を目の前にして、その頃から菊池技師の態度に不思議な変化が起って行った。それは放心したような、立ったまま居睡りを始めたような、大胆にも異様に冴え切った思索の落つきであった。
「相手が海では、敵《かな》いませんよ」
やがて技師が、冷然として云い放った。
「さア、諦めなさい、係
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