云った。
「この死人をよく見てくれ。都合で監督の猿股などはかされているが、お前には、見覚えのある体だろう」
 始め女は、死人におびえて立竦んでいたが、やがて段々死人のほうへ前かがみになると、誰の顔とも判らぬまでに烈しく引歪められたその顔に、灼きつくような視線を注ぎながら、進み寄り、屈みこんで、不意に妙な声をあげて死人の体を抱えあげながら、振返って嗄《しゃが》れ声で云った。
「うちの、峯吉です」

          六

 その頃、滝口坑では全盤に亘って、技師の洩らした言葉が激しい衝撃を与えていた。始め一番坑から続々出坑して、あと半数ほどに残されていた坑夫達の間には、ひとたび海水浸入の事実が知れ渡ると、もうそこには統制もなにもなかった。人びとは炭車《トロ》を投げ出し、鶴嘴を打捨てて、捲立《まきたて》へ、竪坑へ、潮のように押寄せて行った。広場の事務所では、何処からかかるのか電話のベルがひッきりなしに鳴り続け、滝口立山の両坑を取締る地上事務所から到着した救援隊は、逃げ出ようとする坑夫達と、広場の前で揉合っていた。
 どん尻の炭車《トロ》に飛び乗って、竪坑口へ急《いそぎ》ながらも、しかし係長は捨て兼ねたような口調で、技師へ訊ねるのであった。
「つまり丸山技師と工手と、それから峯吉を殺した男は、浅川監督だったんだね?」
 技師が黙って頷くと、
「じゃア一番あとから殺された峯吉は、それまで何をしていたんだ」
「峯吉は一番さきにやられたんです」
「一番さき?」
「そうです。恐らくあの水呑場で屠られたんでしょう。そして峯吉の屍体を、ひとまず側《そば》の穴倉へでも投げ込んだ監督は、それから、あの採炭場《キリハ》へ火をつけたんです」
「なんだって、火をつけた?」
 係長は思わず訊き返した。
「そうですよ。あなたは、あれがただの過失だなんて思ったら大間違いです。レールの上へ峯吉の鶴嘴を転がして置いて、闇の中で女を抱きとめ、夫婦の習慣と女の安全燈《ランプ》を利用して、炭塵に点火したんです。あれは実際陰険きわまるやり口ですよ。ああして置けば、あとで監督局の調査があった時にも、発火の責任は、自分のところへは来ませんからね」
「しかし、何故また、あの採炭場《キリハ》に火をつけたりしたんだ」
「それですよ」と技師は次第に声を高めながら云った。
「さっきも云いましたように、それはあの採炭場《キリハ》の中に、或る時期までは絶対に人に見せてならないものがあったからなんです。だから、ああして発火坑にして人を入れないことにし、そしてまた、あとからその扉を開けようとして熱|瓦斯《ガス》の検査にかかった丸山技師と、工手を同じ目的のために片附けてしまったんです。するとあなたは、ここで、じゃア何故我々だけは無事にあの扉を開けることが出来たのか、って訊かれるでしょう。それは、もうその時、或る時期が過ぎたからなんです。しかも、あの時私みたいな男がやって来て、それまで皆んなの考えが、折角監督の思う壺にはまって来ているのに、もしもこの殺人が坑殺者への復讐であるなら、監督も今度は殺されなければならないなぞと云い出したものですから、切羽詰って穴倉の峯吉の屍体をずり出し、いかにも自分がやられたように見せかけて、炭車《トロ》に人知れず潜り込んで厳重な警戒線を突破り、もう用もなくなったこの滝口坑から逃げ出そうとしたんです」
「待ってくれたまえ」係長が遮切った。
「君はさっき、その監督が人に見られまいとしたものは、あの天盤の亀裂と海水の浸入だと云ったね。しかしこれは、やっぱりこの殺人事件とは全然別の事変だし、おまけにあの採炭場《キリハ》に火がつけられた時には、まだ天盤に異動はなかったんではないか?」
「冗談じゃあない。海水の浸入とこの殺人事件とは、密接な関係がありますよ。そして係長。あの天盤の異動は、むろん発火によって一層促進されはしたでしょうが、実はもう発火前から動いていたんですよ。多分地殻が予想外に弱かったんだ。それに、この事は係長。もうあの時注意したではないですか。よく思い出して下さい。ほら、あの亀裂は、内側まで焼け爛れていたではありませんか。つまり焼けてから裂けたんではなくて、裂けてから焼けたんです。そうだ。監督は誰よりも先に、あの亀裂と、滴り落る塩水を、みつけていたんですよ」
「成る程。しかし何故監督はこんな危険をそんなに早くから知っていながら、何故我々にまで隠そうとしたんだ。そして又、君の云う、その或る時期までとは何のことだ」
「それが、この事件の動機なんです。監督は、海水浸入の事実を最初に発見すると、そいつを某方面へ報告したんです。そしてこの恐ろしい事実の外に洩れるのを、或る時期まで喰い止めることによって、かなりの報酬にありつけることになってたんでしょう。或る時期とは、ほら、あな
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