残っていて後々へ禍を及ぼすとか、妙なことが云い触らされていた。そしてそうした坑夫達の執拗な恐怖心を和げる道具として、坑内が血に穢されたような場合には、その場に締縄《しめなわ》を張って清めのしるしにされるなぞ、そうした奇怪な事実のあるとなしとにかかわらず、もう一般化したならわしにさえなっているのであった。
滝口坑の片盤には、今日その締縄が白々と張り出されたのだ。そしてその締縄に清められた筈の防火扉の前で、皮肉にも新らしい血が、一度ならず二度までも流されてしまった。片盤の坑夫や坑女たちは、網をかぶった薄暗い電気の光に照らされながら、閉された採炭場《キリハ》の防火扉の前に、意味ありげに二つも並んだ屍体を遠巻きにして、前とは違って妙にシーンとしていた。
工手の屍体は、アンペラで覆われた丸山技師の屍体の側に、くの字形に曲って投げ出されていた。伸びあがって瓦斯《ガス》の排出工合を検査している隙に、後ろから突き倒されたものとみえて、踏台が投げ倒され、その側に技師の時よりも、もっと大きな炭塊が血にまみれて転っていた。俯伏せに倒れた上へ折重って、力まかせにその大きな炭塊をガッと喰らわしたものであろう。後頭部から頸筋へかけて大きな傷がクシャクシャに崩れ、左の耳が殆んど形のないまでに潰されていた。殺害は、係長が工手を発火坑の前に一人残して、広場の事務所へ引上げてから、立山坑の菊池技師に電話を掛けに行った監督が、序《ついで》に昼飯を済ましてやりかけの見巡りに出掛けるまでの間に行われたものであって、犯人は前の丸山技師の時と同じように、現場に炭車《トロ》の通っていないような隙を狙って、闇伝いに寄り迫ったものに違いなかった。
係長は紙のように蒼ざめながら、あたりを見廻わして、苛立たしげに坑夫達を追い散らした。
――工手の殺害は、技師の殺害と同じ種類の兇器を用いて行われた。しかも符合はこれだけにとどまらない。工手も又技師と同じように、殺害されるかも知れない同じ一つの理由を持っていた。発火坑の塗り込めに当って、丸山技師や監督の指図を受けながらも、直接その手にコテを掴んで粘土を鉄扉に塗りたくった峯吉生埋めの実行者は、外ならぬ古井工手ではなかったか。犯人は云うまでもなく同一人であり、しかも坑殺された峯吉の燃え沸《たぎ》る坩堝《るつぼ》のような怨みを継いだ冷酷無比の復讐者だ。
しかし、ここで係長は、鉄扉のような思索の闇にぶつかった。
最初係長は、技師の殺害に当って、早くも事の真相を呑み込むと、峯吉の復讐者となり得る人びとの全部を捕えて片ッ端から調査にとりかかったのであるが、しかしその四人の嫌疑者の調査の進行の途中に於て、技師と同じ意味で古井工手が殺害されてしまったのだ。しかも四人の嫌疑者達は、工手の殺害が行われる間中確実に事務所へとじこめられて、一歩も外へは出ていない。それでは犯人は、その四人以外の他人の中にあるか? しかしいまどきの魯鈍な坑夫の中に、他人のために怨みを継いで会社の男を次々に殺していくような、芝居染みた気狂いはいる筈がない。
係長は、いままで鼻の先であしらっていたこの事が、意外な難関に行き当ってしまうと、もうまるで糸の切れた凧《たこ》のようにアテもなくうろたえてしまった。
ところが、ここで係長の暗中模索に、やがてひとつの光が与えられた。けれどもその光たるや、なんともえたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ燐のような光で、却って係長を青白い恐怖の底に叩き落してしまうのだった。
滝口坑では、いつでも死傷者に対して炭坑独特の荒っぽい検屍を、救護室で行うことになっていた。それは坑道が、電気が処々についているとは云っても、炭塵にまみれた暗い電気であったからでもあり、また坑道は炭車《トロ》の通行に必要な程度にしか設計されていず、なにかと手狭で、そうした支障のために少しでも出炭率の低下するのを恐れたからでもあった。
医員の仕度が出来て救護室へ下って来た知らせを受けると、係長は、とりあえず二つの屍体を救護室に移すことにして、来合せた炭車《トロ》へアンペラを敷いて屍体を積み込んだ。そして自分も監督や巡査と一緒に後の一台へ乗ろうとした時であった。
一人の若い坑夫が、己れの安全燈《ランプ》のほかに火の消えた安全燈《ランプ》を一つ持って、片盤坑の奥から駈け出して来た。坑夫は係長を見ると、立止って固くなりながら云った。
「水呑場で、安全燈《ランプ》を一つ拾いました」
「なに、安全燈《ランプ》を拾った?」
係長は険しい顔で振り返った。
炭坑では、安全燈《ランプ》は、坑夫の肌身を離すことの出来ない生命であった。それはただ暗い足元を照すと云うばかりではなく、その焔の変化によって爆発|瓦斯《ガス》の有無を調べる最も貴重な道具でもあった。しかし先にも述べたように扱
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