長。そしてまだ充分時間があるんですから、落付いて避難の仕度にかかりましょう。ところであなたはいま、人殺しどころではないと云いましたね? 成る程、そうかも知れません。しかし、この塩水と人殺しとは、決して無関係ではないんですよ。係長、あの裂目の内側まで焼け爛れた大きな亀裂に、注意して下さい。私にはなんだか、この事件の真相が判りかけたらしいんです」

          五

 さて、それから数分の後には、密閉された片盤坑を中心にして、黒い地下都市の中に、異常な緊張が漲《みなぎ》りはじめていた。
 崩落に瀕した廃坑に、再び重い鉄扉を鎖した係長は、慌しく電話室に駈けつけると、立山坑の地上事務所と札幌の本社へ、海水浸入の悲報を齎《もたら》した。続いて狭い竪坑の出口で圧死者などの出ないように、最も統制のとれた避難準備にとりかかった。
 一方菊池技師は、熊狩りで鍛えた糞度胸をいよいよムキ出しにして、問題の片盤坑の鉄扉を抜け出ると、再びそいつを鎖し、水平坑の小頭達を呼び寄せて、鎖した入口を厳重に固めさした。残忍な殺人者は、深い片盤坑のどこかにいるのだ。その男の捕えられるまでは、何人《なんびと》といえども片盤坑から抜け出る事は出来ない。こうして水も洩らさぬ警戒陣が出来上ると、技師は広場の事務所へやって来た。
 広場では、竪坑に一番近い片盤の坑夫達が、突然下った罷業の命令に、訳の判らぬ顔つきで、ざわめきながらも引揚げはじめていた。いくつかの片盤の小頭達へ、次々に、何かしきりと指図し終った係長は、技師を見ると馳け寄って云った。
「さア今度は、左片盤の番だよ。出掛けよう」
「待って下さい」技師が遮切《さえぎ》った。「その前に、二、三調べたいことがあるんです」
「なんだって」
 係長は吃驚《びっくり》して、苛立ちながら云った。
「この際になって、どうして又そんな呑気なことを云い出したんだ。もう犯人は、あの片盤の中に閉籠められているんじゃないか。そいつを叩き出して、少しも早くあの片盤を開放しなくちゃアならん」
 しかし、菊池技師は動かなかった。
 とうとう係長は、技師が来るまで坑夫を外に出さない条件で、一足先に捜査を申出た。
 係長が水平坑の闇の中へ消えてしまうと、菊池技師は、別室であのまま足止めされていたお品を、すぐに事務所へ呼び込んだ。お品は、やがて問われるままに、大分落ついた調子で、もう
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