ちどまると、不思議《ふしぎ》そうな顔をして、或はあきれたような顔をして、紳士を見返り、見送った。
 すると紳士は、いよいよわけが判らないというような顔をしながら、少からずうろたえはじめ、急にいそぎ足になった。
 と、その体から立ちのぼる芳香《ほうこう》は、自ら捲《ま》きおこした風に乗って、いよいよひろまり、一層多くの人びとが立ちどまって、不思議そうに紳士を見詰《みつ》めはじめた。
 紳士は、泣き出しそうに顔をしかめた。が、急に今度は、真ッ赤になると、歩きながらしきりとなにかブツブツいいはじめた。そして前よりも一層はげしくうろたえはじめ、あわてた足どりで、プラット・ホームから地下道へ、地下道から駅の出口へと、折から爽《さわ》やかな五月の微風《びふう》に、停車場一面ときならぬ香水の嵐をまきおこしながら、かけ出して行った。
 このような紳士が、駅の出口で、さっきから鼻をヒクヒクやりながら、待ちかまえているお巡りさんを、ごまかすことが出来よう筈はない。‥‥

 その晩、東京のお家へ帰ったクルミさんのところへ、警視庁《けいしちょう》のえらいお巡りさんと、××銀行の支配人さんと、それから新聞社の人たちがやって来た。
 写真をとられたり、色々な話を聞かれたりしたあとで、銀行の支配人さんがいった。
「お嬢さん。あなたのお蔭で、私共の銀行は、おお助かりをいたしました。ついては、何かお礼を差上げたいのですが、なにがお望みでしょうか?」
 すると、クルミさんは、一寸ためらってから、こっそりいった。
「そうですの? じゃ、折角ですから、あたしの使ってしまった、あの香水を買っていただきましょうか? だってあたし、あの品を、従姉《いとこ》の信子さんに、お贈りするつもりだったんですもの」
「おやおや、お嬢さん。私共は、もっと沢山のお礼を差上げたいのですよ。それはそれとして、さ、なんでも外にお望みの品を、もうひとつおっしゃって下さい」
 すると、クルミさんは、一寸考えてから、恥かしそうに囁《ささや》いた。
「じゃ、あたし、サンドウィッチをいただきますわ」
[#下げて、地付きで](おわり)



底本:「少女の友」實業之日本社
   1940(昭和15)年5月号
初出:同上
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:金光寛峯
校正:群竹
2002年1月22日公開
2002年1月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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