、無駄である。相手がそのように恐しい男では、却って騒ぎ立てて、平和な旅客《りょきゃく》たちの間に、間違いでも起きたなら、それこそ大変である。いやなによりも、もうクルミさんは、石のようになってしまって、出したくても声も出せなければ、動きたくても、身動きも出来ないのだった。永い時間がたったようだ。
ジッとしたまま、こわごわ、もう一度新聞を見る。
「沈着《ちんちゃく》なる宿直員の観察《かんさつ》」
という見出しが、ふと目についた。すると、少しばかり、クルミ[「クルミ」は底本では「 ルミ」と誤植]さんの心の中に、明るいものがみつかった。
「そうだ、落ちつかなければいけない」
われと己《おのれ》をはげまして、思い切って紳士の顔を見る。
すっかり居睡《いねむ》りが、本式になったらしい。
列車は、もういつの間にか、幾つかの駅を通過して、だんだん国府津《こうづ》の町へ近づいて行くらしい。
ふと、クルミさんは、云いしれぬ恐しさの中から、なんともいえない口惜《くや》しさが、こみあげて来るのを覚えた。
考えてみれば、大変なことになってしまった。折角の楽しい旅行が、お蔭で滅茶々々《めちゃめちゃ》になってしまった。たださえ、知らない大人の人との同席なぞ、あまり歓迎したくなかった今日の旅行に、こともあろうに恐しい盗賊紳士《とうぞくしんし》の乗合わすなぞとは! ふとまた、クルミさんは、別の考えにとらわれる。
――いま、この客車の中に、このように恐しい紳士が乗っていることなぞ、誰も知らないのだ。あたしだけが知っている。このまま知らぬ顔をして、国府津《こうづ》で降りてしまっていいものだろうか?
――しかし、それかと云って、どうして、自分のような少女の身で、こんなにふるえているような臆病《おくびょう》さで、このことを人に知らせることなぞ出来ようか?
遠く、松原の向うに、見覚えのある国府津の山が見えだした。
「そうだ、もう、そろそろ荷物を下して置かなければならない」
急に我に返ると、クルミさんは、思い切って、静かに立ちあがった。手足がガタガタふるえている。まるで夢の中のしぐさのように、中々網棚《あみだな》の風呂敷包《ふろしきづつ》みが下せない。
が、やがてとり下すことが出来た。
紳士は、相変らず居睡《いねむ》っている。
と、この時、お祝いもののはいったその風呂敷包みを膝《ひざ》の上へ置きながら、ふと、クルミさんの頭の中へ、とてつもない考えがひらめいた。すると、前よりもはげしくクルミさんの手足はふるえ出した。が、その眼は、急にいきいきと輝き出した。
しばらくクルミさんは、どうしようかと迷っているようであったが、窓の向うに国府津の海が見えだすと、いきなりクルミさんは、制服のポケットの中へ手を突っ込んだ。そして、真紅のリボンのかかった、小さな美しい木箱をとり出した。
それは、信子さんへのお祝いに、こっそり買求めて来た、あの香水だった。
クルミさんは、ものに憑《つ》かれたような手つきで、ぶるぶる顫《ふる》えながら、その美しいリボンをほどき、レッテルをはがして、木箱の蓋《ふた》をあけると、中から、円い、可愛い香水の瓶をとり出し、その栓の封を切った。
クルミさんは、静かに前かがみになった。
栓を抜いた香水の瓶を、居睡《いねむ》っている紳士のほうへ、ワクワクふるえながら差出し、差出したかと思うと、素早く瓶の口を下へ向けて、紳士の洋服へ、惜しげもなくタラタラと中身を流しつくしてしまった。
列車は、国府津駅にとまった。
なおも居睡りつづける紳士を残したまま、クルミさんは、列車をあとにした。そして、駅を出ると、まるで火でも放《はな》ったようなはりつめた顔をして、すぐ駅前の、交番の前へ立ったのである。
五
湘南《しょうなん》から伊豆の町々へかけて、警察電話《けいさつでんわ》が、活発な活動をしはじめた。
小田原《おだわら》から伊東《いとう》に至る十一の停車場の出口には、鋭い眼をした私服のお巡りさんたちが、眼でない、鼻をヒクヒクさせながら、まるで旅客《りょきゃく》のような恪好《かっこう》で、こっそり立ちはじめた。
ここは、熱海の駅である。
午前十時四十六分、伊東行きの列車が到着すると、大勢の旅客たちが、広いプラット・ホームになだれ出た。
その人びとの中に混《まじ》って、一人の異様《いよう》な紳士が――満身にすばらしい香水の匂いをプンプンさした紳士が、右手をスプリング・コートのポケットへ入れたまま、なにかひどく腑《ふ》に落ちかねたような顔つきで、鼻をヒクヒクさせながら、人混《ひとご》みをかきわけるようにして、出口のほうへ歩いて行った。
人びとは、誰もかも、その紳士の発散する、強い激しい芳香に打たれて、びっくりしたように立
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