、無駄である。相手がそのように恐しい男では、却って騒ぎ立てて、平和な旅客《りょきゃく》たちの間に、間違いでも起きたなら、それこそ大変である。いやなによりも、もうクルミさんは、石のようになってしまって、出したくても声も出せなければ、動きたくても、身動きも出来ないのだった。永い時間がたったようだ。
ジッとしたまま、こわごわ、もう一度新聞を見る。
「沈着《ちんちゃく》なる宿直員の観察《かんさつ》」
という見出しが、ふと目についた。すると、少しばかり、クルミ[「クルミ」は底本では「 ルミ」と誤植]さんの心の中に、明るいものがみつかった。
「そうだ、落ちつかなければいけない」
われと己《おのれ》をはげまして、思い切って紳士の顔を見る。
すっかり居睡《いねむ》りが、本式になったらしい。
列車は、もういつの間にか、幾つかの駅を通過して、だんだん国府津《こうづ》の町へ近づいて行くらしい。
ふと、クルミさんは、云いしれぬ恐しさの中から、なんともいえない口惜《くや》しさが、こみあげて来るのを覚えた。
考えてみれば、大変なことになってしまった。折角の楽しい旅行が、お蔭で滅茶々々《めちゃめちゃ》になってしまった。たださえ、知らない大人の人との同席なぞ、あまり歓迎したくなかった今日の旅行に、こともあろうに恐しい盗賊紳士《とうぞくしんし》の乗合わすなぞとは! ふとまた、クルミさんは、別の考えにとらわれる。
――いま、この客車の中に、このように恐しい紳士が乗っていることなぞ、誰も知らないのだ。あたしだけが知っている。このまま知らぬ顔をして、国府津《こうづ》で降りてしまっていいものだろうか?
――しかし、それかと云って、どうして、自分のような少女の身で、こんなにふるえているような臆病《おくびょう》さで、このことを人に知らせることなぞ出来ようか?
遠く、松原の向うに、見覚えのある国府津の山が見えだした。
「そうだ、もう、そろそろ荷物を下して置かなければならない」
急に我に返ると、クルミさんは、思い切って、静かに立ちあがった。手足がガタガタふるえている。まるで夢の中のしぐさのように、中々網棚《あみだな》の風呂敷包《ふろしきづつ》みが下せない。
が、やがてとり下すことが出来た。
紳士は、相変らず居睡《いねむ》っている。
と、この時、お祝いもののはいったその風呂敷包みを膝《ひざ
前へ
次へ
全10ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大阪 圭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング