よって来た。支配人《バー・テン》が云った。
「お向いの窓を見ていて下さいよ」
 三間ばかり前のその煙草屋の二階の窓には、その時はまだ前と同じように静かに灯《あかり》がともっていたのだが、やがてその部屋の中に人の気配がすると、窓|硝子《ガラス》へ人影がうつった。
 こちらの人びとは、何事が始まるだろうと思わず身を乗り出すようにして見詰めていると、窓の影法師は大きくゆらめいて、手を差しのべ、途端にパッと電燈が消えた。
「いいですか。あの時は影法師の主が、ゆらめいた途端に電気にぶつかって、やはりこんな風に暗くなったんですね」
 しかし支配人《バー・テン》のその言葉の終らぬうちに、向いの窓が、内側からガラガラっとあけられると、そこから、昨晩人びとの見たと同じような、殆んど無地とも見える黒っぽい地味な着物を着た女の後姿が、白いうなじを見せて暗《やみ》の中にポッカリ現れた。途端に支配人《バー・テン》が、持っていたナショナル・ランプの光を、その女の背中に投げかけた。と、なんと今まで、殆んど無地とも見える黒っぽい着物を着ていた年増女の姿が、不意に、黒地に思い切り派手な臙脂《えんじ》の井桁模様を染めだした着物を看た、若い娘の姿に変ってしまった。
「君ちゃん。ありがとう」
 支配人《バー・テン》が、向うの窓へ呼びかけた。すると窓の女は、静かにこちらを向いて淋しげに微笑んだ。君子の顔だった。
「ご覧になったでしょう。……いや、君子さんと、あの着物は、ちょっとこの実験のために拝借したんですよ」
 支配人《バー・テン》はそう云って振返ると、呆気にとられている警部の顔へ、悪戯《いたずら》そうに笑いかけながら、再び云った。
「まだ、お判りになりませんか?……じゃア、申上げましょう。……いいですか、こう云う事を一寸《ちょっと》考えて見て下さい。例えばですね、赤いインキで書いた文字を、普通の色のないガラスで見ると、ガラスなしで見ると同じように赤い文字に見えるでしょう? しかし、同じように赤いインキで書いた文字を、今度は赤いガラスを通して見ると、赤い文字は何も見えませんよ。……恰度、あの写真の現像をする時にですね……私は、あれが道楽なんですが……赤い電気の下で、現像に夢中になっていると、不意に、直ぐ自分の横へ確かに置いた筈の赤い紙に包んだ印画紙が、どこかへ消えてしまって、すっかり面喰《めんくら》ってしまうことがよくありますね。びっくりして手探りで探してみると、チャーンとその何にも見えないとこで手答えがあったりして……ええ、あれと同じですよ。ところが、今度はその赤いガラスの代りに、青いガラスを通して赤インキの文字を見ると、前とは逆に、黒く、ハッキリと見えましょう?……」
「ふム成る程」警部が云った。「君の云うことは、判るような、気がする、がしかし……」
「なんでもないですよ」と西村|支配人《バー・テン》は笑いながら続けた。「じゃ、今度は、その赤インキの文字を、紅色の、臙脂《えんじ》色の、派手な井桁模様の着物と置き換えてみましょう。すると、普通の光線の下では、それは臙脂の井桁模様に見えましょう? ところが、いまの赤インキの文字の例と同じように、一旦青い光線を受けると、その臙脂の井桁模様は暗黒い井桁模様になってしまいます。黒い井桁模様になっただけならいいんですが、その井桁模様の染め出された地の色が黒では、黒と黒のかち[#「かち」に傍点]合いで模様もへちま[#「へちま」に傍点]もなくなってしまい、黒い無地の着物とより他に見えようがありません」
「しかし君。電燈は消えたんだぜ」
「ええそうですよ。あの部屋の中の普通の電燈が消えたからこそ、一層私の意見が正しく現れたんです」
「じゃア、青い電燈が、その時いつの間についたんかね?」
「え? そいつア始めっからついてたですよ。その時にパッとついたんでしたなら、誰にだって気がつきますよ。つまり、その時に青い電燈が始めてついたんではなくて、向うの部屋の普通の電燈が消えた時に、始めていままでついていた青い電燈が、ハッキリ働きかけたんです。だから、この窓にいた人たちは、少しも気づかなかったんですよ」
「いったいその、青い電燈はどこについてたんです」
「いやもう、皆さんご承知の筈じゃアありませんか!」
 警部はこの時、ハッとなると、支配人《バー・テン》の言葉を皆まで聞かずに窓際へかけよった。そして窓枠へ手を掛け足を乗せると、外へ落ちてしまいそうに身を乗り出して、上の方を振仰いだが、直ぐに、「ウム、成るほど!」と叫んだ。
「青蘭」のその窓の上には、大きく「カフェ・青蘭」と書かれた青いネオン・サインが、鮮かに輝いているのだった。
「しかし、それにしても、よくまアこんな事に気がついたね?」
 あとでビールを奢《おご》りながら、警部は支配人《バー
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