の迂濶さに気づいて、思わず顔がほてって来た。が、この時私は、ふと電光のように、或る思いつきが浮んで来た。
「ああ田部井さん。判りましたよ。……八時前には、雪が降っていたでしょう。それで、サンタ・クロースは八時前にここへ入って、八時過ぎて雪が止んでから、出て行ったのでしょう。だから、入った時の跡は雪に消され、出て行った時の跡だけ残ったのでしょう」
 すると田部井氏は、意外にも静かに首を振った。
「それが、大違いなんですよ。成る程、その考え方も、一応もっともですね。私も、最初あの窓の下の条痕《あと》が一つだけなのを見た時に、そんな風にも考えて見ました。しかし、あとであなたから、あの条痕《あと》が消えてしまったことを伺った時に、それが間違っている事に気づきました。問題は、あの途中で消えてしまった足跡にあるんです」
「と云われると……?」
「じゃアやっぱり、雪が積ったんですか?」
「そうですよ」
「じゃア何故、その雪は、あんな斑《むら》な、不公平な降りかたをしたんです」
 すると田部井氏は、私の肩に手をかけた。
「あなたは、推理の出発を間違えられたんです。いいですか――部屋の中で人が殺されて、大事な子供が奪われている。そして窓が明放《あけはな》されて、その外の雪の上に、確かに片手に子供を抱えて行ったらしい片杖のスキーの跡がある――と、ここまで観察されるうちに、もうあなたは、その窓から子供を奪った怪人が逃げ出して行った、と云うように推理されてしまったでしょう。それが、そもそもの間違いなんです」とここで田部井氏は調子を変えて、今度は手真似を加えながら、「じゃア、ひとつ、こういう場合を考えてみて下さい。……いいですか、こう、盛んに雪の降る中を、一人の人間が歩いていたとします。……ところが、その人が歩き続けているうちに、急に雪がやんで、カラリとしたお天気になったとしたら、その場合その人の足跡はどういう風に残りますか?……つまり、雪の降っている時には、足跡はつけられてもつけられる一方からすぐに消えてしまうが、その雪がバタッとやんでしまうと、その雪のやんだところから、始めて足跡がつきはじめるわけでしょう。その足跡を、その人の進行に逆らってこちらから辿って行けば、まるで人間がなくなってしまったように、その足跡は、薄れ、消えてしまうわけでしょう……つまり人が通ってしまったあとから雪が降ったのでもなければ、雪がやんでしまったあとから人が通ったのでもなく、実に人の歩いている最中に、その進行の途中で、いままで降っていた雪がやんだわけです……これでもう、あの消えた足跡の正体はお判りになったでしょう。つまりあの足跡の主は、この家の窓からあの時に出て行ったのではなくて、逆にはいって来たわけです。しかも今夜雪がやんだのは恰度八時頃でしたから、そのサンタ・クロースが町の方からやって来てこの家に窓からはいった時間も、まず八時頃と見当がつくわけです」
「なるほど、よくわかりました」私は頭をかきながらつけ加えた。「そうすると、あの片杖の跡はどういうことになりますか?」
「あれですか、あれはなんでもありません。あなたが始め考えられたように、やはりそのサンタ・クロースは荷物を片手に持っていたのです。しかしそれは、子供ではなくて、あの部屋に転っていた雪に濡れたボール紙の大きな玩具箱だったのです。サンタ・クロースの贈物だったのです……」とここで田部井氏は言葉を改めて、「さア、これでもう大分わかって来たでしょう。窓の足跡は確かに外から入って来たものであり、その足跡のほかに出て行ったらしい足跡もなく、家の中にもサンタ・クロースの姿はおろか子供の影もないと云えば、この表玄関からサンタ・クロースと子供は出て行ったに違いないのです……時に、あなたが最初ここへ駈けつけられた時に、表口《ここ》にそれらしい足跡はありませんでしたか?……その連中はあなたより先にここを出て行ったのですよ」
「さア、そいつは。……なんしろあわてていましたので……」
「じゃア仕方がありません。ひとつ面倒でも、この沢山の跡の中から、片杖を突いた跡を探しましょう」
 田部井氏は早速屈み腰になって、それらしい跡を探しはじめた。むろん私もその後に続いて、仄白い雪明りの中をうろつきはじめた。表通りの弥次馬連は、なに事が起ったのだろうと、好奇の眼を輝かして私達のしぐさを見守った。
 雪の上には、私達や警官達のスキーの跡がいくつも錯綜して、なかなか片杖のスキーの跡はみつからない。例のスキーの跡の終点まで行った警官達が、やっと帰って来たとみえて、家の中がなんとなく賑かになった。
 その時、田部井氏が私のところまで来て、不意に問いかけた。
「あなたより先にここへ来たのは、あのA組の美木でしたね……美木は大人用のスキーをつけていたでしょうね?」
 私が頷くと、
「じゃアやっぱり子供のものだ」
 とわけのわからぬことを云いながら、道路の生垣に沿ったところまで私を誘って行きそこに残されている二組のスキーの跡を指しながら云った。
「片杖の跡のないのも無理はないですよ。子供は、サンタ・クロースに抱えられて行ったのではなく、サンタ・クロースに連れられて、自分でスキーをはいて行ったんです」
 成るほど雪の上には、大人のスキーと並んで、幅の心持狭いスキーの跡が、表通りを進んでいる。
「さア、訊問に呼び出されないうちに、急いでこの跡をつけて行きましょう」
 私達は、直ぐに滑り出した。
 もう大分時間もたっている事だから、どこまでその跡の主人《あるじ》達は進んでいるか判らない。最初私は、そう思って滑り出したのだが、ところが、生垣に沿って五十|米突《メートル》も進んだ処で、不意にその条痕《あと》は、なにか向うから来たものを避けるようにして二つとも右側へ方向転換《キックターン》している。私はギョッとなった。そこは隣りの空家である。二つの条痕は、ささやかな生垣の表からはいって玄関をそれ、暗い建物の横から裏のほうへ廻っているらしい。私達は固唾を飲んでつけだした。
「意外に近かったですね」田部井氏が歩きながら、蒼い顔をして云った。「どうも、不吉な結果になりそうです……ところで、あなたは、いったいサンタ・クロースを、誰だと思いますか?……もうお判りになったでしょう?」
 私は顫えながら、烈しく首を振った。田部井氏は空家の庭へ踏み込みながら、
「判っていられても、云い憎いんじゃアないですか?……この場合、サンタ・クロースになって、窓から贈物を届けるほどの人は、誰でしょう?……しかも、子供は、引ッ抱えなくても、一人でスキーをはいてついて来るんです……確か、七時半頃に、このH市へ着く汽車がありましたね?……私はなんだかその汽車で、予定よりも一日早く、浅見さんが帰って来たんじゃないかと」
「えッ、なに三四郎が※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」私は思わず叫んだ。「飛んでもない……よしんば、三四郎が帰ったにしても、なぜ又こんな酷惨《むごたら》しいことを……いいや、あんなに家庭を愛した男が、どうしてこんなことをするものですか!」
 しかしもうその時、空家の裏側へ廻っていた田部井氏は、そこの窓の下に二組の大小のスキーが脱ぎ捨てられているのをみつけると、すぐに明放《あけはな》された窓へ飛びつき、真暗な部屋の中へはいって行った。続いて窓枠に飛びついた私は、この時闇の中から顫え上るような、田部井氏の呻き声を聞いた。
「ああ……やっぱり遅かった……」
 闇に眼が馴れるにつれて、やがて私も、天井に下げたカーテンのコードで、首を吊っている浅見三四郎の、変り果てた姿を見たのだった。その足元には、バンドで首を絞められた子供が、眠るように横わっていた。チョコレートの玉が、二つ三つ転っている。その側に、キチンと畳まれた紙片が置いてあったが、田部井氏はそれを拾い上げると、チラリと表紙《おもて》を見て、黙って私にそれを差出した。それは三四郎の、私にあてた、たった一つの遺書であった。雪明りを頼りに急ぎ認《したた》めたものとみえて、荒々しい鉛筆の走書きであったが、窓際によって、私は顫えながらも、辛《かろう》じて読みとることが出来た。
[#ここから1字下げ]
 鳩野君。
 とうとう僕は、地獄へ堕ちた。しかし君にだけは、事の真相を知って貰いたい。
 農学校は、雪崩《なだれ》のために予定よりも一日早く休みになった。七時半の汽車で町についた僕は今夜がクリスマス・イーヴなのに気づいて、春夫の土産《みやげ》を買って家路を急いだ。
 君は、僕がどんなに平凡な男で、妻を、子供を、家庭を愛していたか、よく知っていてくれたと思う。僕は、妻や子供が、予定よりも一日早く帰ってくれた僕を、どんなに喜んでくれるか、そう思うと、いっそうその喜びを大きくしてやりたさに、ふと、サンタ・クロースを思いついた。僕は、幸福にはち切れそうな思いで、わざわざ家の裏へ廻って、跫音《あしおと》を忍ばせ、居間の窓粋へ辿りつくと、そうッとスキーを脱いで杖に突き、窓枠へ乗って、驚喜する家人の顔を心の中に描きながら、硝子《ガラス》扉を開けた。
 ああ僕は、しかしそこで、絶対に見てはならないものを見てしまったのだ! 部屋へ入って僕は、長椅子の上に抱き合いながら慄えている及川と妻の前へ、僕のそれまでの幸福の塊《かたまり》みたいな、土産の玩具箱を投げつけてやった。
 しかし鳩野君。どうしてそんなことで、沸《たぎ》り立つ憎しみがおさまろう。それから僕が、涙を流しながら、灰掻棒でなにをしたか、もう君は知っている筈だ。僕は、隣室で眼を醒した春夫に、僕のした事を知らすまいとして春夫を騙して表へ連れて逃げだした。ああしかし、僕はもう逃げ場を失ってしまった。よしんば逃げ場があったとしても、どうして傷付いたこの心が救われよう。
 鳩野君。僕は、僕のこの暗い旅の門出が、愛する春夫と二人であることに、せめてもの喜びを抱いて行こう。
 では、左様なら。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]三四郎

 窓の外には、いつの間にか夜風が出て、弔花のような風雪が舞いしきり、折から鳴りやんでいた教会の鐘が、再び嫋々《じょうじょう》と、慄える私の心を水のようにしめつけていった。
[#地付き](「新青年」昭和十一年十二月号)



底本:「とむらい機関車」国書刊行会
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「新青年」
   1936(昭和11)年12月号
初出:「新青年」
   1936(昭和11)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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