を突いていたと見えて、杖の先の雪輪《リング》で雪を蹴散らした痕《あと》が二、三間毎についているが、右側には全然ない。
 私の胸は高鳴りはじめた。予想が適中したのだ。つまりそのスキーの主は、左手には杖を突きながら、右手には杖を突くことが出来なかったのだ。その手は、杖の代りに何ものかを抱えていたに違いない。怪しい男に抱えられて、藻掻《もが》きつづけながら運ばれて行った子供の姿が、瞼《まぶた》の裏に浮上って来た。私はいよいよ固くなりながら、前の方を絶えず透し見てはスキーの跡をつけて行った。
 疑問のスキーは、生垣を越して空地を通り抜け、静かな裏通りへ続いて行った。この辺りはH市の郊外でも新開の住宅地で、植込の多い人家はまばらに点在して、空地とも畑ともつかぬ雪の原が多かった。
 この雪は、夕方から八時まで降った処女雪で、美しい雪の肌には他のスキーの跡は殆んどなく、時たま人家の前で新しいスキーの跡と交叉したり、犬の足跡がもつれたりしている以外には、疑問のスキーを邪魔するものはなかった。なにしろ、相手が相手である。私は戦慄に顫えながらも、益々注意深く、森《しん》とした夜空の下を滑りつづけて行った。
 疑問のスキーは、やがて裏通りを右手に折れて、広い雪の原へはいって行った。その空地の向うには、三四郎の家の前を通って市内へ通じている本通りがある。スキーの跡は市内の方へ向いてその空地を斜めに横切り、どうやら向うの本通りへ乗り換えるつもりらしい。この分では、途中で警官に応援を求めることが出来るかも知れない。私は急に元気づいて、かなり広いその原ッぱを、向うの通りへ斜めに向って走って行った。しかしその私の考えは、まるでトテツもない結果に終ってしまった。
 最初私が、スキーの跡は本通りへ乗換えていると思い込んだのが、そもそもよくなかった。はじめそのつもりで斜めに雪の原を横切って行った私は、もうその原ッぱを半分以上も通り越したところで、ふと、いつの間にか疑問のスキーの跡を見失っていることに気がついた。びっくりした私は、あわててあたりを見廻した。が、雪の肌にはなんにもない。ただ私の通って来た跡だけが、少しずつ曲りくねりながら至極のんびりと残っているだけだ。
 私は、自分で自分をどやしつけながら、あわてて廻れ右をした。あたりをせわしく見廻しながら、元の空地のはいり口へ向って、後もどりをはじめた。いくら戻っても、いくら見廻しても、しかし疑問のスキーの跡は、みつからない。こいつは妙だぞ、私は益々うろたえはじめた。
 ところが、空地の入口の近くまで来て、やっと私は、仄白い雪の肌に、さっきのスキーの跡を再びみつけることが出来た。私はホッとして、今度こそは見失わぬように、ずっとその跡の近くまで寄添って、糸でも手繰《たぐ》るようにしながら進みはじめた。こうしてつけて行くと、やっぱりその跡は、原ッぱを斜めに横切って、本通りのほうへ向っている。なんだってこいつを見失ったりしたのだろう。私は、再三自分で自分をどやしつけながら、注意深く跡を見詰めつづけて行った。ところが、そうして今度こそはと注意して進むうちに、とうとう私は、まことになんとも変テコなことに気がついてしまった。
 というのは、原ッぱの真ン中近くまで来ると、どうしたことかその疑問のスキーの跡は、ひどく薄くなって、いや元々古い雪の上に積った新しい雪の上のその跡は、決して深くはなかったのだが、それよりも又浅くなって、なんと云うことだろう、進むにつれ、歩むにつれ、益々浅く薄く、驚く私を尻目にかけて、とうとう空地の真中頃まで来ると、まるでその上を滑っていたものが、そのままスウーッと夜空の上へ舞上ってしまったかのように、影がうすれ、遂にはすっかり消えてしまっているのだ。
 その消え方たるや、これが又どう考えてもスキーの主に羽根が生えたか、それとも、あとから、その跡の上に雪が降って、跡を消してしまったか――それより他にとりようのない、奇怪にも鮮かな消えかただった。
 私は、うろたえながらも、夢中になって考えた。しかし前《さき》にも述べたように、夕方からひとしきり降りつのった雪は八時になってバタッと止んでしまうとそのまま「寒の夜晴れ」で、あとから雪なぞ決して降らなかった。よし又、たとい降ったとしても、ここから先の跡を消した雪が、何故現場からここまでの跡を消さなかったのであろうか? 雪はあまねく降りつもって、凡ての跡は消されなければならない。――それでは、その原ッぱに奇妙な風雪《かざゆき》の現象が起って、風に舞い上げられた雪が降りつもって、その部分の跡が消されたのではあるまいか? しかしそのような風雪を起すほどの風は、決してその晩吹かなかった筈だ。――私は憑かれた人のように雪の原ッぱに立竦んでしまった。まだ鳴り止まぬ不気味な鐘の音が、悪魔の嘲笑《あざけり》のように澄んだ空気を顫わせつづける。
 しかし、ここで私は、いつまでもボンヤリ立竦んでいるわけにはいかない。攫《さら》われた子供の安否は急を告げている。家には二人の死人がある。もうこの上は、猶予なく警察へ報せなければならない。
 やがて私はそう決心すると、そのまま一直線に市内へ向って走り出した。一番近い交番へ飛び込んで、事件を知らせ、そこの若い警官と一緒に再び元来た道を引返しながらも、しかし私は、雪の原ッぱの消失ばかり気にしなければならなかった。
 やがて私達が、ひとまず三四郎の家まで辿りついた時には、もう出来事を嗅ぎつけたらしい近くの家の人達が二、三人、スキーをつけて、警察へ報せに出ようとしているところだった。三四郎の家の前には、その人達に混って度を失った美木が、泣き出しそうな顔で立っていた。家の中には、美木に呼びにやらした田部井氏が、恐らく私と同じ事を考えたのであろう、ガタピシ扉《ドア》を鳴らして部屋から部屋へ子供の行衛《ゆくえ》を探していた。
 警官は家の中へはいって現場をみると、直ぐに私と田部井氏へ、本署から係官が出張されるまで、現場の部屋を犯さないよう申出た。そして三四郎の書斎に充《あ》てられた別室へ陣取ると、戸外《おもて》の美木も呼び込んで、ひと通り事情を聴取しはじめた。
 美木も私も、すっかりとりのぼせてしまって、前に述べたような発見の径路や、この家の家族についての説明を、横から口を出したり後戻りしたりしながら、喋っていった。しかし田部井氏はかなり落ついていて、口数も少なかった。
 やがて、数人の部下を連れた肥《ふと》った上役らしい警官が到着すると、現場の調べが始まった。パッ、パッ、と二つも三つもフラッシュが焚かれて、現場の写真が撮られて行った。現場が済むと警官達は、家の外を廻って窓の下へ集まって行った。肥った上官は、さっきの若い警官から報告を受けたり、死体の有様を眺めたりしていたが、窓の外の警官達が、生垣の隙間を越して向うの空地へ、ざわめきながらスキーの跡をつけはじめると、じっとしていられないように、あとを若い警官にまかせて窓の外へ出て行った。
 私は三四郎に当てて電報を書くと、それを美木に持たせて郵便局へ走らせた。そして始めて落ついた気持で、田部井氏と差向いになった。
 田部井氏は、さっき私が警官に色々と説明していた頃から、もう既に落ついてはいたが、その頃には益々落つきを増して、落ついているというよりも、なにかしきりに考え込んでしまった様子だった。いったい何を考え込んでしまったのだろう?
 何か特別な考えの糸口でもみつけたのだろうか?
「田部井さん」私は思い切って声をかけた。
「いったいあなたは、どう云う風にお考えになりますか?」
「どう云う風に、と云いますと?」
 田部井氏は顔を上げると、眼をぱちぱちさせた。
「つまりですね」私は向うの部屋のほうを見ながら、「あなたもご覧になれば判ると思いますが、ああいう惨酷なことをして子供を奪いとって逃げ出した男の足跡が、なんしろ、まるで空中へ舞い上ったように消えてしまってるんですからね。妙な出来事ですよ」
「そうですね。確かに妙ですよ。しかし妙だと云えば、この事件は、始めっから妙なことばかりですよ」
「ほう、それはまた……」
「あなたは、あの部屋に散らばっている玩具やお菓子を、始めから、つまりこんな出来事の起らない先から、あの部屋にあったものと思っていますか?」
「さあ、やはり前からあの部屋にあって、食べたり遊んだりしていたものでしょうな」
「私は、そうは思わないんですよ。少くとも食べかけたものなら、キャラメルなりチョコレートの、銀紙や蝋紙が捨ててある筈なんですが、さっき警官の来ない先に、探してみた時にはなにもなかったですよ。それに、あそこに転っている玩具は、みんな新しい品ばかりですし、第一長椅子の前に投げ出されてやぶれていたボール紙の玩具箱が、お茶なぞのこぼれた跡もないのに濡れていたのは妙です……あれは、あの蓋の上に少しばかりの雪が積っていて、室内の温度で解けたのではないかと思います。……そうそう、こんなつまらない事は云わなくたって……」と田部井氏はここで語調を変えて、今度はジッと私の眼の中を覗き込むようにして、「……不思議の材料は、始めから揃っておりますよ……とにかく、クリスマスの晩にですね……雪の上を、スキーに乗って……窓から出入して……それから、天国へ戻って行く……」
 田部井氏は、ふっと押黙って、もう一度私の眼の中を促すように見詰めながら、
「……いったい、何者だと思います?……」
「ああ」私は思わず呻いてしまった。「じゃアあなたは……あの、サンタ・クロースの事を、云っていられるんですか?」
「そうです。つまり、あの部屋へ……手ッ取早くいうと……サンタ・クロースが出現したわけです」
 私は少からず吃驚《びっくり》してしまった。
「しかし、随分惨酷なサンタ・クロースですね?」
「そうです。飛んでもないサンタ・クロースですよ……恐らく悪魔が、サンタ・クロースに化けて来たのかも知れません」とここで田部井氏は、急に真面目な調子に戻って、立上りながら云った。「……いや、しかし、どうやらその化けの皮も、剥がれかかって来ましたよ。……私には、この謎がもう半分以上、判って来ました。さア、これからひとつ、サンタ・タロースのあとを追ッ駈けましょう」
 田部井氏は、居間の入口まで行って、その中で頻《しき》りに現場の情況をノートしていた警官へ、外出を断ると、私へ眼配《めくばせ》しながら玄関口へ出て行った。私は、わけが判らぬながらも、自信のありそうな田部井氏の態度に惹かれて、ふらふらと立上った。そして、これから追跡しようとするあの奇怪なスキーの条痕《あと》や、そして又その条痕《あと》の終点で、さだめしいま頃、腕を組んで夜空を振仰いでいるに違いない肥っちょの係員の姿を思い浮べながら、田部井氏のあとに続いて行った。
 けれども戸外《そと》に出た田部井氏は、どうしたことか、裏の窓口へは廻ろうとしないで、生垣の表門へ立って、前の通りをグルグル見廻しはじめた。そこの雪の上には、出入した幾つかの足跡が入り乱れ、近所の人達が、蒼い顔をして立っていた。いったいどうしたと云うのだろう。
「田部井さん。足跡は、裏の窓口からですよ」
「あああれですか」と田部井氏は振返って、
「あれはもう、用はありませんよ。私は、もう一つの条痕《あと》を探してるんです」
「もう一つの条痕《あと》ですって?」
 思わず私は、そう訊き返した。
「そうですとも」田部井氏は笑いながら、「窓の外には一人分の跡があっただけでしょう。ね、あれでは往復したことになりませんよ。あそこからサンタ・クロースが出て行ったのなら、もう一つ入った跡がなければなりませんし、あそこから入ったのなら、出た跡があるわけですよ」とそれから、浅見家の屋根のほうを見上げてニヤッと笑いながら、「いくらサンタ・クロースだって、まさかあの細い煙突から、はいったなんてことはないでしょう……こいつは、ただのお伽噺《とぎばなし》ではないんですからね」
 成る程、何処かから入って来た跡がなければならない筈だ。私は自分
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