の靴跡の前の部の局部的な強い窪み方――。等々の総合的な推理からして、僕はこの靴を、一種の木靴――あの真夏の海水浴場で、熱い砂の上を婦人達が履いて歩く可愛い海水靴《サンダル》であると推定したんだ。そして、少なくともその海水靴の側面は、美しい臙脂《えんじ》色に違いない――。何故って、ほら、これを御覧」
 そう言って大月は、靴跡の土つかずの処から、その海水靴が心持強く土の中へ喰入った時に剥げ落ちたであろう極めて小さな臙脂色の漆の小片を拾い上げて、二人の眼の前へ差出した。そして、
「勿論、こんなにお誂《あつら》え向きに漆が剥げ落ちて呉れる様では、その海水靴ももう相当に履き古されたものに違いないが、ここで僕は、去年の夏辺りどこかの海水浴場で、その海水靴と当然同時に同じ女に依って用いられたであろうビーチ・パンツとビーチ・コートを思い出すんだ。そして而もそれらの衣服の色彩は、派手な水色《ペイルブリユー》であった、とね。だが茲で、或は君は、若しも男が、犯人は女であると見せかける為に、そんな婦人用の海水靴を履いたのだとしたならどうだ、と言う疑いを持つかも知れない。が、而し、それは明かに間違っている。何故ならば、若しも犯人が男で、そしてそんな野心を持っていたのだったならば、その男は、一見男に見えるビーチ・パンツやビーチ・コートを着るよりも、当然、逆に、一見して婦人と思われるワンピースか何かの婦人服を着なければならない筈だからね。……いや、全く僕は、最初夫人の証言を聞いた時から、ひょっと[#「ひょっと」に傍点]こんな事じゃないかと思った位いだ。遠方から見てそれが男装であったと言うだけで、犯人を男であると断定するなど危険な話だよ。なんしろ海のあちらじゃ女の子の男装が流行ってる時代なんだし、岸田氏を取巻く女達などは、ま、言って見れば日本のデイトリッヒやガルボなんだからね。――兎に角、若しも犯人が、夫人やこの証人の方の遠目を晦《くら》ます為にそんな奇矯な真似《まね》をしたのだとしても、今更そんな事を名乗って出る犯人などないんだから、まあ、直接の証拠をもっと探し出す事だよ」
 大月は再び熱心に靴跡を辿り始めた。
 軈て暫くして、靴跡が交錯しながら砂地から芝草の中へ消えているあたり迄来ると、再び二人の立会人を招いて、地上を指差しながら言った。
「林檎《りんご》の皮が落ちてるね。見給え」それから証人に向って、「警察の連中はこれを見落したりなどして行ったんですか?」
「さあ、――この付近に林檎の皮など落ちている位いは珍しい事じゃないですから、旦那方は知らずに見落したんじゃなかろうかと思いますが。何でも旦那方はそこいら中|細《こまか》に調べられて、あの雑木林の入口に散っていた沢山の紙切れなんども丁寧に拾って行かれた位いで御座居ます」
「紙切れを――?」
「へえ。何か書いた物をビリビリ引裂いたらしく、一寸見付からない様な雑木林の根っこへ一面に踏ン付ける様にして捨ててあったものです。手前が拾いました奴は、恰度その書物の書始めらしく、何でも――花束の虫……確かにそんな字がポツリと並んでおりました」
「ほほう。……ふうむ……」
 大月は暫くジッと考えを追う様にして眼をつむっていたが、軈て、
「ま、それはそれとして、兎に角この林檎の皮だ。勿論これは、警察で見捨《みすて》て行ったものだけに月並で易っぽいかも知れない。が而し決して偶然ここに落ちていたのではなくて、この犯罪と密接な関係を持っている。――つまり兇行が犯された当時に剥き捨てられたものなんだ。よく見て御覧。そら。この皮は、岸田氏の靴跡の上に乗っているだろう。そして一層注視すると、その又皮の上を半分程、それこそ偶然にも犯人の靴が踏み付けてるじゃないか。だからこの皮は、兇行当時前に捨てられたものでもなければ、兇行当時後に捨てられたものでもない。正に加害者と被害者の二人がこの丘の上で会合した時に剥き捨てられたものなんだ。そして、尚一層注意して見ると」大月は林檎の皮を拾い上げて、「ほら。剥き方は左巻きだろう。なんの事はない。よくある探偵小説のトリックに依って推理すると、この場合犯人は女だったのだから、林檎の皮を剥いたのは極めて自然に犯人であると見る。従って犯人は左利、と言う事になるわけさ。……だが、それにしても黒いトランクは何だろう? そして、岸田氏に組付いて、そんなにあっさり[#「あっさり」に傍点]と断崖から突墜す事の出来る程の体力を具えた女は、一体誰れだろう? そして又、『花束の虫』とは一体何を意味する言葉だろう?……」
 それなり大月は思索に這入って了った。そして腕組をしたまま再び靴跡の上を、アテもなく歩き始めた。秘書の秋田は大月の思索を邪魔しないつもりか、それとももうそんな仕種《しぐさ》に飽きて了ったのか、証人の男を捕
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