犯人は、どうも今日ひょっこり遠方からこんな田舎へやって来た人間じゃあないね。僕は、屹度《きっと》犯人はこの土地で、少くとも服装を自然に改め得る位い以上の余裕ある滞在をした男だ、と考えるよ。そしてその男は、少くともあの場合、黒いトランクを平気でその持主でもない岸田氏に持たせて歩かす事の出来る人間だよ。つまり、極めて常識的に考えて見て、そんな事の出来る人間は岸田氏の親しい同輩か、或は広い意味で先輩か、それとも、そうだ。婦人位いのものじゃあないか――。次にもうひとつ、証言に依ると犯人は岸田氏より小柄で細っそりしていたとあるが、病上りとは言え相当体格のある岸田氏に組付いて、格闘の揚句あっさり[#「あっさり」に傍点]岸田氏を崖の下へ突墜して了ったと言うからには、子供の喧嘩じゃあないんだから、何か其処に特種な技でもない限り、犯人は柄の割に腕の立つ、少なくとも被害者と対等以上の実力家である事だけは認めなけりゃならないね」
と、黙って歩いていた証人が口を入れた。
「いや、全くその通りで御座居ます。あの方が崖から突墜される瞬間だけは、手前もよく覚えておりますが、それは全く簡単な位いに、……こう、……ああ、これだ。これがその喧嘩の足跡で御座居ます」
そう言いながら証人は、急に五六歩前迄馳け出して立止り、地面の上を指差《ゆびさし》ながら二人の方へ振り返った。
成程彼の言う通り、殆ど崖の縁近く凡そ六坪位いの地面が、其処許《そこばか》りは芝草に覆われないで、潮風に湿気を帯《ふく》んだ黒っぽい砂地を現わしていた。砂地の隅の方には、格闘したらしい劇《はげ》しい靴跡が、入乱れながら崖の縁迄続いている。よく見ると、所々に普通に歩いたらしい靴跡も見える。そしてそれ等の靴跡を踏まない様に取りまいて、警官達のであろう大きな靴跡が幾つも幾つも判で捺した様についている。
大月は争いの跡へ寄添って見た。
大きな靴跡は直介のもので、薄く小さいのが犯人の靴跡だ。二種《ふたいろ》の靴跡は、或は強く、或は弱く、曲ったり踏込んだり、爪先を曳摺《ひきず》る様につけられたかと思うとコジ曲げた様になったりしながら、激しく入り乱れて崖の縁迄続いている。そうして、崖の縁で直介の靴跡は消えて了い、その代りに角の砂地がその上を重い固体の墜ちて行った様に強く傷付けられている。下は、眼の眩む様な絶壁だ。
大月はホッとして振返ると、今度は逆にもう一度靴跡を辿り始めた。が、二種の靴跡が普通に歩いている処迄来ると、小首を傾げながら屈み込んで、其処に比較的ハッキリと残されている犯人の靴跡へ、注意深い視線を投げ掛けていた。が、軈て顔を上げると、
「ふむ。こりゃ面白くなって来た」と、それから証人に向って、不意に、「貴方は確かに犯人は男だ、と言いましたね。――ところが、犯人は女なんですよ。――」
秋田も証人も、大月の意外な言葉に吃驚《びっくり》して了った。二人は言い合わした様に眼を瞠《みは》りながら、靴跡を覗き込んだ。が、勿論二人の眼には、どう見てもそれは踵《かかと》の小さいハイ・ヒールの女靴の跡ではなく、全態の形こそ小さいが、明かに男の靴跡としか見られない。秋田は、大月の言葉を求める様にして顔を上げた。すると大月は、静かに微笑みながら、
「判らないかね。――じゃあ言って上げよう。ひとつ、よくこの靴跡を観察して御覧。すると先ず第一に、誰れにでも判る通りこの靴跡は非常に小さいだろう。第二に、靴の小さい割に爪頭と踵との間隔――つまり土つかず[#「土つかず」に傍点]が大きいだろう。そして第三に、これが一番大切な事なんだが、ほら、踵の処をよく御覧。底ゴムを打った鋲穴の窪みの跡が、こちらの岸田氏の靴跡にはこんなに良く見えるが、この靴の踵の跡には少しも見えないじゃあないか。ね。いいかい、君。靴に対する衛生思想が、一般に発達して来た今日では、オーヴァー・シューや、特殊な運動靴などを除く限り、殆んどどの男靴にも踵へ鋲穴のあるゴムが打ってあるんだよ。ところが、この靴にはその底ゴムを打ってない。而《しか》らばオーヴァー・シューか、と言うに、オーヴァー・シューにしては、子供のものでない限りこんな小さな奴はないし、又、運動靴などにしては、こんな大きな割合の土つかず[#「土つかず」に傍点]を持った奴はない。そして又オーヴァー・シューや運動靴の様な特種なものには、それぞれ特有なゴム底の凹凸なり、又は金属的な装置がある筈だ。そこで、僕は、この犯人の靴跡の個有《こゆう》の型状――例えば、全体に小さい事や、外郭《がいかく》の幅が普通の靴底のそれよりも遥かに平坦で細長い事や、土つかずの割合が大きくそして特異である事や、そして又、人間の足首で言うと恰度蹠骨尖端の下部に当る処なんだが、あの少女の履くポックリの前底部を一寸思い出させる様なこ
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