思い出した。そして何か英雄的《ヒロイック》なものを心に感じながら、コッソリと夫人の手許を盗み見た。が、勿論夫人は左利きではなかった。
 翌朝――。
 それでも昨晩に較べると大分元気づいたらしい大月は、朝食を済ますとこの土地を引き上げる迄にもう一度単身で昨日の丘へ出掛けて行った。そして崖の頂へ着くと再び昨日よりも厳重な現場の調査をしたり、靴跡の複写《コピー》を取ったりした。が、それ等の仕事が済むと、気に掛っていた仕事を済した人の様に、ホッとして別荘へ戻って来た。
 そして間もなく、大月、秋田、比露子夫人の三人は、銚子駅から東京行の列車に乗り込んだ。
 車中大月はこの犯罪は、大変微妙なものであるが、もう大体の見透はついたから、茲一両日の内には大丈夫犯人を告発して見せると言う様な事を、自信ありげな口調で二人に語り聞かせた。が、何故どうしてそうなるとか、詳しい話を聞かせて呉れないので、秋田は内心軽い不満と不審に堪えられなかった――。

     三

 屏風浦を引上げて、大月と秘書の秋田が丸《まる》の内《うち》の事務所《オフィス》へ帰ったのは、その日の午後二時過ぎであった。
 事務所には、二人が一日留守をした間に、もう新しい依頼事務が二つも三つも舞い込んで、彼等を待っていた。昨日の屏風浦訪問以来、大月の言う事なす事にそろそろ不審を抱かせられてうんざりしていた秘書の秋田は、それでも極めて従順に、どの仕事から調べかかるか、と言う様な事を大月に訊《たず》ねて見た。が、それにも不拘《かかわらず》大月は、もう一度秋田を吃驚《びっくり》させる様な不審な態度に出た。全く、それは奇妙な事だった。
 ――銚子から帰って二時間もしない内に、新しい書類の整理をすっかり秋田に任せた大月は、築地《つきじ》の瑪瑙座の事務所を呼び出して、暫く受話器を握っていたが、軈て通話が終ると、何思ったのかついぞ着た事もないタキシードなどを着込んで、胸のポケットへ純白なハンカチを一寸折り込むと、オツにすましてその儘夕方の街へ飛び出して了ったのだ。
 歳柄もなく口笛などを吹きながらさっさとアスファルトの上を歩き続けて行った大月は、銀座《ぎんざ》裏のレストランでウイスキーを一杯ひっかけると、それからタクシーを拾ってユニオン・ダンス・ホールへやって来た。そして其処で、昔習い覚えた危い足取で古臭いワルツを踊り始めた。――が、
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