デパートの絞刑吏《こうけいり》
大阪圭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)青山喬介《あおやまきょうすけ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)多分|独逸《ドイツ》物

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)キマリ[#「キマリ」に傍点]
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 多分|独逸《ドイツ》物であったと思うが、或る映画の試写会で、青山喬介《あおやまきょうすけ》――と知り合いになってから、二カ月程後の事である。
 早朝五時半。社からの電話を受けた私は、喬介と一緒にRデパートヘ、その朝早く起こった飛降り自殺のニュースを取るために、フルスピードでタクシーを飛ばしていた。
 喬介は私よりも三年も先輩で、かつては某映画会社の異彩ある監督として特異な地位を占めてはいたが、日本のファンの一般的な趣向と会社の営利主義《コムマアシャリズム》とに迎合する事が出来ず、映画界を隠退して、一個の自由研究家として静かな生活を送っていた。勤勉で粘強な彼は、一面に於て、メスの如く鋭敏な感受性と豊富な想像力を以てしばしば私を驚かした。とは言え彼は又あらゆる科学の分野に亙《わた》って、周到な洞察力と異状に明晰な分析的智力を振い宏大な価値深い学識を貯えていた。
 私は喬介とのこの交遊の当初に於てその驚くべき彼の学識を私の職業的な活動の上に利用しようとたくらんだ。が、日を経るにつれて私の野心は限りない驚嘆と敬慕の念に変って行った。そうして間もなく私は、本郷の下宿を引き払って彼の住んでいるアパートヘ、しかも彼と隣合せの部屋へ移住してしまった。それ程この青山喬介と言う男は、私にとって犯し難い魅力を持っていたのである。

 六時十分前に、私達はRデパートヘ着いた。墜死の現場はこのデパートの裏に当る東北側の露地《ろじ》で、血痕の凝結したアスファルトの道路の上には、附近の店員や労働者や早朝の通行人が、建物の屋上を見上げたり、口々に喧《やか》ましく喋《しゃべ》り合ったりしていた。
 死体は仕入部の商品置場に仮収容され、当局の一行が検死を終わった処であった。私達が其処《そこ》へ入って行くと、今度○○署の司法主任に栄進した私の従兄弟《いとこ》が快く私達を迎えながら、この事件は自殺でなく絞殺による他殺事件である事、被害者はこの店の貴金属部のレジスター係で野口達市《のぐちたついち》と言う二十八歳の独身店員である事、死体の落下点付近に幾つかのダイヤの混じった高価な真珠の首飾《くびかざり》が落ちていた事、そしてその首飾は、一昨日《おととい》被害者の勤務する貴金属部で紛失した二品の内の一つである事、更に又、死体及び首飾は今朝四時に巡廻中の警官に依って発見されたものなる事、そして最後に、この事件は自分が担任している事を附け加えて、少々得意気に話してくれた。説明が終わると、私達は許しを得て死体に接近し、罌粟《けし》の花の様なその姿に見入る事が出来た。
 頭蓋骨は粉砕《ふんさい》され、極度に歪められた顔面は、凝結した赤黒い血痕に依って物凄く色彩《いろど》られていた。頸部には荒々しい絞殺の瘡痕が見え、土色に変色した局部の皮膚は所々破れて少量の出血がタオル地の寝巻の襟《えり》に染み込んでいた。検死のために露出された胸部には、同じ様な土色の蚯蚓腫《みみずば》れが怪しく斜《ななめ》に横たわり、その怪線に沿う左胸部の肋骨《ろっこつ》の一本は、無惨にもヘシ折られていた。更に又、屍体の所々――両方の掌《てのひら》、肩、下顎部、肘《ひじ》等の露出個所には、無数の軽い擦過傷《さっかしょう》が痛々しく残り、タオル地の寝巻にも二、三の綻《ほこ》ろびが認められた。
 私がこの無惨な光景をノートに取っている間、喬介は大胆にも直接死体に手を触れて掌中《てのなか》その他の擦過傷や頸胸部の絞痕を綿密に観察していた。
「死後何時間を経過していますか?」
 喬介は立上がると、物好きにも側にいた警察医に向ってこう質問した。
「六、七時間を経ていますね」
「すると、昨晩の十時から十一時までの間に殺された訳ですね。そしていつ頃に投げ墜《おと》されたものでしょう?」
「路上に残された血痕、又は頭部の血痕の凝結状態から見てどうしても午前三時より前の事です。それから、少くとも十二時頃まではあの露地にも通行人がありますから、結局時間の範囲は零時から三時頃までの間に限定されますね」
「私もそう思います。それから被害者が寝巻を着ているのは何故でしょうか? 被害者は宿直員ではないのでしょう?」
 喬介のこの質問に警察医は黙ってしまった。今まで司法主任に何事か訊問されていた寝巻姿の六人の店員の一人が、警察医に代って喬介の質問に答えた。
「野口君は昨夜《ゆうべ》宿直だったのです。と言うのは、各々違った売場から毎晩順番の交代で宿直するのが、この店の特種[#ママ]な規則と言いますかまあキマリ[#「キマリ」に傍点]になっているのです。昨晩の宿直は、店員の中ではこの野口君と私と、其処《そこ》に立っている五人と、都合七人でした。それから雑役の用務員さんの方《かた》で彼処《あそこ》にいる三人を加え、全部で十人の宿直でした。そんなわけで同じ宿直室へ寝ながら、宿直員の中ではお互に馴染《なじみ》の少い顔ばかりと言う事になるのです。昨晩の様子ですか? 御承知の通り只今では毎晩九時まで夜間営業をしていますので、九時に閉店してからすっかり静かになるまでには四十分は充分に掛ります。昨晩私達が、各々手分けをして戸締りを改めてから消燈して寝に就いた時は、もう十時に近い頃でした。野口君は、寝巻に着換えてから一人で出て行かれたようですが多分便所へでも行くのだろうと思って別に気にも留めませんでした。それから今朝の四時にお巡りさんに起されるまでは、何にも知らずにぐっすり眠ってしまったのです。……ええ、宿直室は、用務員さん達のが地階で、私達のは三階の裏側に当っています。六階から屋上に通ずるドアーですか? 別に錠は下しません」
 この宿直店員の供述が終ると、喬介は他の八人の宿直員に向って、昨晩の事に関して今の供述以外のニュースを持っている人はないかを質問した。が、別に新しい報告を齎《もた》らした者はなかった。ただ、子供服部に属していると言う一人が、昨晩は歯痛のために一時頃まで眠られなかった事、その間野口達市のベッドが空《から》である事には少しも気が附かなかった事、怪し気な物音なぞは少しも聞えなかった事等、ちょっとした陳述をなしたに過ぎなかった。
 次に首飾に関する喬介の質問に対して鼻先の汗をハンカチで拭いながら、貴金属部の主任が次の様に語った。
「只今知らせを受け驚いて出勤したばかりです。野口君はいい人でしたが残念な事をしました。決して他人《ひと》から恨みを受ける様な人ではありません。首飾の盗難事件ですか? どうも野口君に限って首飾とは関係ないと思いますね。とにかく首飾は一昨晩の閉店時に紛失したのです。これこれ二品です。合わせてちょうど二万円の代物です。で当時の状況から推《お》して確かにお客さんの中に犯人が混じっていたと思われます。従って貴金属部の店員は申すに及ばず、全店員の身体検査をするやら建物の上から下まで細密な捜索をするやら、いや全くこの一両日は大騒ぎでした。それがこの始末です。全く不思議です」
 丁度主任の供述が終った時、屍体の運搬車が来て、三人の雑役係の宿直用務員が屍体を重そうに提《さ》げ、臆病そうにヨタヨタした足取りで運び出して行った。その様子を暫く名残り惜し気に見詰めていた喬介は、やがて振り返るや私の肩を叩きながら元気よく叫んだ。
「君、屋上へ行こう」

 もう開店時間に間もないと見えて、どの売場でも何時の間にか出勤した大勢の店員や売子《ショップガール》達が、商品の上に覆われた白|更紗《さらさ》のシートを畳んだり、新しい商品を運んだりして忙しく立働いているのを、エレベーターの中から見渡しつつ間もなく私達は屋上へ出た。今までの陰惨な気持を振り捨てて晴れ渡った初秋の空の下に遠く拡がる街々の甍《いらか》を見下ろしながら、私は深い呼吸を反覆した。
 喬介は、被害者野口が墜《おと》されたと思われる東北側の隅へ歩み寄り、腰を屈《かが》めてタイル張りの床を透かして見たり外廓を取り繞《め》ぐる鉄柵の内側に沿う三尺幅の植込みへ手を突込んで、灌木の根元の土を掻き回す様に調べたりしていたが、間もなく複雑な気色を両の眼に浮べながら、西側の隅で虎に餌を与えている番人の姿や、東側の露台の上で気球係の男が軽気球《バルーン》の修繕をしている景色に見惚《みと》れていた私に向って、静かに声を掛けた。
「君、虎を見ているのかね。我々も一つ餌にありつこうじゃないか。……こいつはなかなか面白い事件だよ」
 もう喬介は歩き出した。とうとう喬介はこの事件に乗り出してしまったな、と思いながらも、底深い好奇的な魅力に誘われた私は、喬介に従って六階へ降りた。其処で私は電話室に這入り、新聞記者としての私の職責を果すために社への一通りの報告を済ますと、喬介に連れ立って食堂へ出掛けた。
 流石《さすが》に朝の内と見えて、食堂の内部はひっそりしていた。ただ、隅の窓に寄ったテーブルの一つに、司法主任と彼の部下の一人とが、分厚なサンドウイッチに噛《かじ》り附いていた。彼は私達を見附けるや、立上って同じテーブルヘ椅子を取り持ってくれた。私達は快くその椅子に着いた。給仕が私達の註文を取りに来ると、華奢な鉄格子の填《はま》った窓を見ていた喬介は、その少女を捕えて、何階の窓にも一様に鉄格子が填っている、と言う事実を確かめていた。
 やがて私達の食事が始まると、熱い紅茶を啜りながら司法主任が喋り出した。
「事件は複雑ですが解決は容易ですよ。私は実地検証主義ですからね。それでですな――勿論、殺人は昨晩の十時から十一時までの間で行われ、今朝の零時から三時頃までの間に屋上から投げ墜されたものです。この時間と言い、戸締りが厳重で外部から侵入の余地がない点と言い、犯人は明かに店内の者です。いいですか、一層はっきり言えばですね、昨夜この店内にいた者と言うのです。勿論これはあなた方にだけ申上げるのですが、これから昨晩の宿直員を全部徹底的に調査します。ただ、ここで少し困難を感ずる問題は、首飾の一件です。もしも首飾を盗《と》った犯人が野口を殺害したものとすれば、何故犯人は首飾を遺棄したか? もし又首飾を盗った者を被害者自身とすれば、殺人の動機はどこにあるか? しかしこれらの問題を解決するためには、私は先ず首飾の指紋を検出して見ますよ。では、ご緩《ゆっく》り――」
 司法主任は、元気な挨拶を残し、部下の警官を従えて食堂を出て行った。
 今まで無言で食事をしていた喬介は、その口元に軽い微笑を浮べながら初めて口を切った。
「あの人は君の従兄弟と言ったね。ま、いいや、一体に日本の警察は、犯罪の動機を真っ先に持ち出したがるよ。だからたとえそれが皮相的なものにせよ今度の事件の様に一見動機の不可解な犯罪に逢着すると、直ちに事件そのものを複雑化してしまう。勿論、動機の探求結構さ。ただ、動機を以て、犯罪探偵の唯一の手掛であると考えたがる単純な公式的な頭脳に対して反駁《はんばく》したいのだ。早い話が、この事件に於て、我々はあの真珠の一件よりも、死体そのものに見られる三つの特徴の方が大事だ。第一に、頸部の絞殺致命傷|並《ならび》に胸部の絞痕――最初私はこの傷を鞭《むち》様の兇器で殴り附けたものと感違いした――に与えられた暴力が、非常に強大なものなる事。第二に両手の掌中に残された横線をなす無数の怪し気な擦過傷。その中には幾つかの胼胝《たこ》も含まれる。第三に、肩、下顎部、肘等の露出個所に与えられた無数の軽い擦過傷。と、まあこの三つだね。
 先ず与えられた第一の手掛を分析検討して見よう。すると直ちに私は、犯人は数人又は非常に強力な一人の人間である、と言う推定に達する。同様にして、第二の手掛である掌中の擦過傷は、被害者が何物かを握
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