んだな。お内儀《かみ》さん、心当りは御座居ませんか?』
『別に、御座居ませんけど――』
『そうですか。で、御主人は一人で出掛《でか》られた[#「出掛《でか》られた」はママ]んですね?』
『いいえ。源さんが、あの山田源之助さんが呼びに来られて、一緒に出掛けました。』
『御近所ですか?』
『ええ、直ぐ近くですし、それにとても心安い間柄でしたから寄って呉《く》れたんです。出がけに表戸の前で、「あの若僧《わかぞう》すっかり震え上って了《しま》いおった。」とか「今夜は久し振りに飲めるぞ。」とか二人で話し合いながら出て行《ゆ》くのを、妾《わたし》はこっそり立聞きしていました。』
『ほう。好《よ》くそんな話を覚えていられましたね?』
『ええ。前の日まで中気で寝ていた源さんは、その日無理をして仕事に出た為《た》め工場で過《あやま》って右腕に肉離れ[#「肉離れ」に傍点]をして了《しま》ったのです。で、そんな怪我をした弱い中気の体で、又酒など飲んでは――と他人事《ひとごと》ながら心配でしたので、あの話は好く覚えております。』
『いや有難う。それで、そのまま二人共帰らないんですね?』
『ええそうなんです。』
『有難う。』
 喬介は丁寧に礼を言って彼等の側を離れると、私を顎《あご》で呼びながら船渠《ドック》の方へ歩き出した。
『いや、驚いたねえ。随分クソ丁寧に殺したものだねえ。』
 喬介に寄り添いながら私が言った。
『全くだ。体中傷だらけだよ。心臓の刺傷《さしきず》と後頭部の猛烈な打撲傷――二つの致命傷が一つの肉体に加えられているんだ。そして、その上に身体《からだ》一面に恐るべき擦過傷がある。随分惨忍な殺人だよ。勿論屍体はあの通り麻縄でガッチリ縛り、海の真中《まんなか》へ重《おもし》を着けて沈めたんさ。犯人の頭脳のレベルは決して高いものではないね。まあ九分九厘知識階級の人間でない事は確かだ。だが、推理を起すに当っては、やはり充分な注意を払わなければならん。で、先《ま》ず最初に僕が頭をひねったのは、あの幾通りかの傷や機械油が、被害者の体へ加えられて行った順序だ。確かにあれ丈《だ》けの変化が一度に起ったとは思われん。いや、それどころか各々《おのおの》の変化には、みんなハッキリした順序が見えている。後頭部の打撲傷や身体各所の激しい擦過傷を思い出し給え。あの二通りの傷は、心臓部の刺傷に比較して恐ろしく周囲の皮膚が擦りむけていたね。一体人間の皮膚と言う奴は、勿論生きている人間の、而《しか》も薄い上皮ではなくあの屍人《しにん》のそれの様に一枚下の厚い奴の事だよ。そう言う皮膚は、あんなに易々《やすやす》と傷口の周囲までまくれて了《しま》うものかね? 僕はそう思えないんだ。只《ただ》、もう息の通《かよ》っていない、そろそろ虫の湧《わ》きかかりそうな、或は又、数日間水浸しになっていたとか言う様な屍体では、そう言う事も信じられる。で、この考え方からして、最も妥当な順序を立てて見ると、先ず最初被害者は、鋭利な刃物で心臓を一突きに刺されて絶命する。次に後手《うしろで》に縛り挙げられ、重《おもし》を着けられて海中へ投げ込まれる。茲《ここ》で暫く時間を置いて、次にあの致命的な打撲傷と恐るべき擦過傷が幾分柔かくなった肌へ加えられる。茲で面白い証拠を僕は見ておいたよ。後手に縛られた両腕の表側には擦過傷があるが、腕の後側や腕の下に当る胸の横から背中の一部へかけては、衣服の綻《ほころ》びさえも見られない事だ。次に、あの黒い機械油のシミ[#「シミ」に傍点]だが、溶け加減と言い、染み工合と言い、確かに暫く水浸しになっていたに違いはないが、凡《すべ》ての傷の一番最後から着いたものなんだ。何故《なぜ》ってあの油は、背中の上部の上衣《うわぎ》から、綻《ほころ》びの中のジャケットや擦《す》り破れた肌の上まで、そして縛られた麻縄の表側へまでも、ひっこすった様に着いていたか轤ヒ。さあ、これで一通りこの方は済んだ積《つも》りだ。ひとつ、これから殺人の現場《げんじょう》を調べて見ようじゃあないか。』
 喬介はこう言って、鉄工場の方へどんどん歩き出した。私は驚いて思わず声を挙《あ》げた。
『エッ! 殺人の現場? どうして君はそれを知っているんだ。』
 私の質問に微笑を浮べた喬介は、歩きながら言葉を続けた。
『ふむ。何でもないさ。君はあの死人の左の顔面に気味悪いソバカスのあったのを覚えているだろう。僕はあれを見た瞬間に、ソバカスが顔の一方に丈《だ》けあるのを不思議に思ったんだ。で、よく調べて見ると、なんの事はない鉄の切屑《きりくず》の粉が一面にめり込んでいるのさ。つまり、ソバカスと思った小《ち》いさな斑点は、被害者が心臓を突き刺されて、俯向《うつむき》になった儘《まま》バッタリとノビて了《しま》ったトタンに、
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