少くともそれまではこれッぽちの怨みッこもない間柄ですから、女将の証言も、まず正当な一市民の声、としかとりようがありません……
そんなわけで、例によって裁判長の念押しがあったり、検事さんと弁護士との押問答があったりして、すったもんだの揚句、結局次回の公判には有罪と決り、懲役六年の判決を言渡されましたよ……
いや、こんな風に申上げると、まるで「つぼ半」の女将の証言だけで、被告人が有罪になったように見えるかも知れませんが、実際はそんなんではなく、事件当時の状況や、被告側に全然有利な証拠がないことや、それに被告人の平素の行状なんてものも盛んに斟酌《しんしゃく》されての上なんです……しかし、むろん、福田きぬの証言が判決に大きな影響を与えたことは、ま、この場合確かに間違いありませんね……え?……被告ですか?……ええ、むろん直ぐに控訴しましたよ……いやしかし、気の毒だが、ダメでした。
でまア、そんなわけで、この放火事件もひとまずケリがついたんですが……これで、このままで終ってしまえば、なんでもなかったんですが……いや、ところが、これからが本筋なんでして……問題は、その「つぼ半」の女将にあるんですがね、いやどうも、飛んでもない女なんですよ……
左様《そう》ですね……あれは、放火事件があってから三月《みつき》ほどしてからのことでしたかね……もうそろそろ夏がやって来ようって頃でした。「つぼ半」の女将が、又しても裁判所へやって来たんです……いや、今度は私が、この目でみつけたんですよ……
と云うのは、そうそう刑事部の廊下でしたよ。なんでも、人混みの中で最初ぶつかったんですがね……あの女将、前と違って髪を夜会巻きかなんかに結《ゆ》って、夏羽織なぞ着てましたがね……いや最初私は、その、ちょっと「築地明石町」みたいな別嬪を見た時に、おや、どこかで見たことのあるような――と思って、ふと立止ったんですが、むろんすぐには思出せませんでした。そこで、なにか事件の傍聴にでも来た人だな、とまアそう思ったんです。まったく、傍聴人の中にはいつだって物好きな常連がいくらもいるんですからね……ところが、始めはそう思ってたんですが、どうしてなかなか、見ていりゃア証人控室へはいって行くじゃアありませんか……さア、妙だな? と思いましてね、あとから法廷を調べてみると、どうです、今度は一号室の殺人事件に立会ってるじゃアないですか……もっとも、その時はまだ、同じ女が、洗濯屋事件のほかに放火事件にも関係していたってことは、私は知りませんでしたがね……それにしても、よく証人に立つ女だくらいに思って、恰度休憩時間に一号法廷の弁護士が……その弁護士は菱沼《ひしぬま》さんって云いましたがね……その菱沼さんが、なにか用事があって私達の部屋へ来られた折に、ちょっと口を辷《すべ》らして聞いてみたんです……すると、その時は菱沼さん、別に大して不思議にも思われないようでしたが、恰度そばに居合わせた私の同僚《なかま》で夏目《なつめ》ってのが、どんな女だって、容姿《なり》から名前まで聞くんです。で、こうこう云う女だって云うと、その女なら、前に放火事件の時にも三号法廷で証人に立ったと云うんです。でまア、そこで私も、始めてその事を知ったわけなんですが、その夏目の云う事を聞いた菱治さんは、そこで急に不審を抱いたんです。不審を抱いたどころじゃアない、ひどく亢奮《こうふん》しちまったくらいで……
いや全く、無理もないですよ……聞いてみれば、その殺人事件ってのは、なんでも、目黒あたりの或るサラリー・マンが、近所に暮している、小金を持った後家さんを殺したと云う事件なんですがね……これが又、その、証拠が不充分で審理がなかなか果取《はかど》らないって代物なんでして、そこへその、「つぼ半」の女将が証人として現れたんですが、ところがこの証人、前の放火事件と同じようにあとから警察へ申出て、つまり検事側から出て来た証人でして、むろん被告にとって不利な証言を持込んだんです。なんでも……今度は、恰度事件のあった日に競馬を見物に出掛けたんだそうですが、その遅くなった帰り途の現場附近で、殺された後家さんの家のある露路《ろじ》の中から、不意に飛出して来た男にぶつかった、と云うんです。むろん兇行の時刻と一致するんですがね……ところが「つぼ半」の女将、あとで新聞の写真を見て、容疑者がそのぶつかった男とバカによく似てるってんでテッキリ怪しいと睨んだんだそうですが、やがてそれが警察の耳にはいり今度召喚を受けると進んで出て来て首実検をしたと云うんですが、入廷して被告の顔を見ると、涼しげな声で、
「ハイ、確かにこの方でございます」
とやらかしたんだそうですよ。
むろん殺人事件の判検事は、前の時とはまた係りが違ってたもんですから「つぼ半」の女
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