巻物《まきもの》に書《か》きとめて、寺《てら》から寺《てら》へと其過去帳《そのくわこちやう》を持回《もちまは》つたなら、皆《みんな》も嘸《さぞ》悦《よろこ》ぶ事《こと》であらうが、第《だい》一、死《し》んだ会友《くわいいう》の名《な》を知《し》らないのだ。事《こと》に依《よ》つたら、主《しゆ》の君《きみ》も、それをお知《し》りにならうとなさらないのだらう。時《とき》に、あの子供《こども》たちも名《な》が無《な》いやうだ。主《しゆ》の君《きみ》は却《かへ》つて其方《そのはう》が好《い》いと仰有《おつしや》るだらう。幼児《をさなご》は白《しろ》い蜜蜂《みつばち》の分封《すだち》のやうに路一杯《みちいつぱい》になつてゐる。何処《どこ》から来《き》たのか解《わか》らない。ごく小《ちひ》さな巡礼《じゆんれい》たちだ。胡桃《くるみ》の木《き》と白樺《しらかんば》の杖《つゑ》をついて十字架《クルス》を背負《しよ》つてゐるが、その十字架《クルス》の色《いろ》が様々《さまざま》だ。なかに緑《みどり》のがあつたが、それはきつと木《こ》の葉《は》を縫《ぬ》ひつけたのだらう。皆《みんな》野育《のそだち》の無知《むち》の子供《こども》たちで、どこを指《さ》して行《ゆ》くのだか、何《なに》しろずんずん歩《ある》いてゆく。唯《たゞ》耶路撒冷《イエルサレム》を信《しん》じてゐる。何《なん》でも耶路撒冷《イエルサレム》は遠《とほ》い処《ところ》だ、さうして主《しゆ》の君《きみ》は、われわれのごとく傍《そば》にお出遊《いであそ》ばすのだ。衆《みんな》は耶路撒冷《イエルサレム》まで往《い》かれまい。耶路撒冷《イエルサレム》が衆《みんな》のとこへ来《く》るだらう。丁度《ちやうど》自分《じぶん》にも来《く》るやうに。凡《す》べて神聖《しんせい》な物《もの》の終《はて》は悦《よろこび》に在《あ》る。われらが主《しゆ》の君《きみ》はこの紅《あか》い茨《いばら》の上《うへ》に、このわが口《くち》に、わが貧《まづ》しい言葉《ことば》にも宿《やど》つていらせられる。なぜといふに、自分《じぶん》は主《しゆ》の君《きみ》を思《おも》ひ奉《たてまつ》ると、其聖墓《そのおはか》が心《こゝろ》の中《うち》にもう入《はい》つてゐるからだ。亜孟《アメン》。どれ、日射《ひあたり》のいゝ此処《ここ》へでも寝転《ねころ》ばうか。これこそ
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