『新訳源氏物語』初版の序
上田敏
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)容易《たやす》からぬ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)心|細《ぼそ》けれ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+主」、第3水準1−87−40]
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源氏物語の現代口語訳が、与謝野夫人の筆に成って出版されると聞いた時、予はまずこの業が、いかにもこれにふさわしい人を得たことを祝した。適当の時期に、適当の人が、この興味あってしかも容易《たやす》からぬ事業を大成したのは、文壇の一快事だと思う。それにつけても、むらむらと起るのは好奇心である。あのたおやかな古文の妙、たとえば真名盤《まなばん》の香《こう》を※[#「火+主」、第3水準1−87−40]《た》いたようなのが、現代のきびきびした物言《ものいい》に移されたとき、どんな珍しい匂が生じるだろう。※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]瑰《まいかい》の芳烈なる薫《かおり》か、ヘリオトロウプの艶に仇めいた移香《うつりが》かと想像してみると、昔読んだままのあの物語の記憶から、処々《しょしょ》の忘れ難い句が、念頭に浮ぶ。
「野分だちて、にはかにはだ寒き夕暮の程は、常よりも、おぼし出づること多くて」という桐壺の帝の愁《うれい》より始め、「つれづれと降り暮して、肅《しめ》やかなる宵の雨に」大殿油《おおとなぶら》近くの、面白い会話「臨時の祭の調楽に、夜更けて、いみじう霰《あられ》ふる夜」の風流、「入りかたの日影さやかにさしたるに、楽《がく》の声まさり、物の面白き」舞踏の庭、「秋の夜のあはれには、多くたち優る」有明月夜、「三昧堂近くて、鐘の声、松の風に響き」わたる磯山陰《いそやまかげ》の景色が思い出され、「隠れなき御匂ひぞ風に従ひて、主《ぬし》知らぬかと驚く寝覚《ねざめ》の家々ぞありける」と記された薫《かおる》大将の美《び》、「扇ならで、これにても月は招きつべかりけり」と戯れる大君の才までが、覚束《おぼつか》ないうろおぼえの上に、うっすりと現われて、一種の懐しさを感じる。殊に今もしみじみと哀《あわれ》を覚えるは、夕顔の巻、「八月十五夜、くまなき月影、隙《ひま》多かる板屋、残りなく洩り来て」のあたり、「暁近
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