余裕の精神に充ち満ちたものではなかつたか。「風流」といい「みやび」といい「物のあはれ」といい、いずれも余裕の精神のさまざまな現われにほかならぬが、我々の父祖はそれらを決して単なる観念として机上に遊ばせておいたのではなかつた。生活の中に、行動の中に、血液の中にそれらを溶かしこんでいたのだ。それだからこそ政事の中に、風流が出てきたり、合戦の最中にもののあわれが出てきたりしても少しもおかしくないのだ。
多くの軍記合戦の類を通じて我々の父祖たちがいかに堂々と討ちつ討たれつしたか、いかに悠揚と死んで行つたかを知るとき、私は余裕の精神が彼らの死の瞬間までいかにみごとに生き切つていたかを思わずにはいられない。
思うに芸術の修行も要するに自己を鍛錬して、いかなる場合にもぐらつくことのない立派な余裕を築き上げることに尽きるようである。そして芸術の役割とは要するに人々の心に余裕の世界観を植えつけること以外にはなさそうである。(四月二十九日)[#地から2字上げ](『新映画』昭和十九年六月号)
底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(
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