余裕のことなど
伊丹万作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)磨墨《するすみ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)名馬|生食《いけずき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ねつたい[#「ねつたい」に傍点]
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 近ごろの世相は私に精神的呼吸困難を感じさせることが多い。しかし、日本人がもしも本来の大和心というものを正しく身につけているならば、世の中が今のようにコチコチになつてしまうはずはないのである。
 たとえば直情径行は大和心の美しい特質の一つであるが、近ごろの世の中のどこを見てもそのようなものはない。
 直情径行といえばすぐに私は宇治川の先陣あらそいでおなじみの梶原源太景季を想い出す。
「平家物語」に出てくる人間の数はおびただしいものであるが、それらの全体をつうじてこの源太ほど私の好きな人間はいない。
 だれでも知つているとおり、源太は頼朝が秘蔵の名馬|生食《いけずき》を懇望したがていよく断られた。そしてそのかわりに生食には少し劣るが、やはり稀代の逸物である磨墨《するすみ》という名馬を与えられた。源太はいつたんは失望したが、しかし生食が出てこぬかぎり、味方の軍勢の中に磨墨以上の名馬はいないので、その点では彼は得意であつた。
 源太はある日駿河浮島原で小高い所にのぼり、目の前を行き過ぎるおびただしい馬の流れを見ていた。
 どの馬を見ても磨墨ほどの逸物はいないので彼はすつかり気をよくして上機嫌になつていた。するとどうしたことか、いよいよおしまいごろになつてまさしく生食にまぎれもない馬が出て来たのだ。
「馬をも人をもあたりを払つて食ひければ」と書いてあるくらいだから、何しろ手のつけられない悍馬であつたことは想像に難くない。首を反つくりかえらして口には雪のような泡を噛み、怒つた蟷螂のように前肢を挙げ、必死になつて轡にぶら下る雑兵四、五人を引きずるようにして出て来た。
 源太は思わず目をこすつた。いくら目をこすつてもこれだけの馬が生食のほかにあるわけがない。
「こらこら、奴! それはだれの馬だ」
「佐々木殿の馬でございます」
「佐々木は三郎か、四郎か」
「四郎高綱殿」
 これを聞くと源太は思わずうなつて、
「うーむ、ねつたい[#「ねつたい」に傍点]!」と言つた。このねつたい[#「ねつたい」に傍点]
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