人間山中貞雄
伊丹万作
−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の注記や傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
−−
平安神宮の広場は暑かつた。紙の旗を一本ずつ持つた我々は脱帽してそこに整列していた。日光は照りつけ汗がワイシャツの下からにきにきと湧いた。前面の小高い拝殿の上には楽隊がいて、必要に応じて奏楽をした。注意して見ると、楽隊のメンバーにはアフレコ・ダビングでかねてなじみの顔ばかりである。
それから神官の行事があつた。つづいて君が代の斉唱、バンザイの三唱など型どおり行われたが、その間、出征軍人山中貞雄は不動の姿勢で颯爽――という字を張りこみたいところだが、そういう無理をするとこの一文がうそになる。どうみてもあれは颯爽というがらではない。鐘であつたら正に寂滅為楽と響きそうなかつこうで立つていた。
それからトラックやら自動車やらに分乗して「歓呼の声に送られて」と、○○の連隊の近所まで送つて行つたのはついきのうのことのような気がする。
入営から何日か経つて面会を許された日があつたので、女房のこしらえた千人針を持つて行つてみた。いろんな人が入りかわり立ちかわり面会に来るので、その下士官室は大変混雑していた。山中自身もすくなからず応接に忙殺されている形であつたので、長くはいずに帰つたが、この日の山中は元気がよかつた。
しばらくの間に兵営生活が身につき、彼自身も本当の一兵士に還元した安心と落ち着きとがあり、したがつてのびのびした自由さが感じられた。
この日以来私は山中を見ない。しかしいつかは(それもあまり遠からぬ将来において)必ず再会できるという確信のようなものを私はひそかにいだいていた。それにもかかわらず、あつけなく山中は死んでしまつた。
ある朝浅間山の噴火の記事を探していて、山中陣没の記事にぶちあたつた、腹立たしいほどのあつけなさ。浅間山なんぞはまだいくらでも噴火するだろう。しかし我々はもはやふたたび山中の笑顔を見ることができないということは、実感として何か非常に不思議なできごとのように思われてならない。それは我々を悲しませるよりもさきに人間の生命の可能性の限界を、身に突きさして示すようである。
私が初めて山中に会つたのは、たしか『都新聞』の小林氏の主催にかかる茶話会の席上であつた。時期はちようど山中がその出世作と目されている一連の作品を出していたころだろうと思う。迂濶にもそのときの私はまだ山中の名声を知らず、したがつてその作品を知らぬことはもちろんであつた。ただ彼と小林氏との間にかわされる談話によつて、この人が寛プロの山中という人だということを知つたにすぎない。特に紹介もされなかつたのでその日は直接口はきかなかつた。
それからまもなく山中貞雄の名まえがしげしげと耳にはいるようになり、どんな写真を作る人か一つ見ておこうというので初めて見たのは「小笠原壱岐守」であつた。作品としては特に感心したところはなかつたが、とにかく十何巻かの長尺物を退屈させずに見せたのは相当の腕達者だという印象を受けた。それからのちも山中の作品はなるべく見るように心がけてはいたが、結局三分の一あるいはもつと見のがしているかもしれない。その乏しい経験の範囲でいうならば、私は概して山中の作品を人が騒ぐほどには買えなかつた。
彼の作品が実にスムーズに美しく流れていることは定評のとおりである。しかしそれは私の志す道とは必ずしも方向が一致しなかつたのでさほど心をひかれなかつた。彼の作品が才気に満ちていることもまた定評のごとくである。しかし私はできればそういうところから早く抜け出したいと思つていたし、また彼の才気といえども決して天啓のごとく人の心を照すような深いものではなかつた。
ことわつておくが私は決して山中の作品をけなすために病中をしのんでまで筆を起したのではない。のち、直接山中の人間と相識るにおよんでその人間とその作品とを比較検討するに、どうも作品のほうが大分人間に敗けているように思われてならない。したがつてその人間に対する比例からいつても彼の作品をこの程度にけなすことはこの場合絶対に必要なのだ。
私が初めて山中と口をきいたのはいつのことか、いくら考えてみても思い出せないのであるが、いずれにしてもそれは監督協会創立当時、そのほうの必要からいつとはなしに心安くなつたものに相違ない。したがつて我々の交際はいつも集会の席上にかぎられていて、さらに進んで互の居宅を訪問するとか、あるいは酒席をともにするとかいうところまではついに進展しないでしまつた。
だから私は彼の私生活の片鱗をも知らない。また長鯨の百川を吸うがごとき彼の飲みつぷりにも接したことがない。にもかかわらずほんの二度か三度会ううちに私はすつかり山中
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
伊丹 万作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング