のおもしろさを決定するものは内容であり、内容を決定するものは原作である。したがつて原作をいいかげんに考えておきながら、いたずらにおもしろくないとか何とかいつて騒ぐのはあたかも空の池に魚を放つておいて魚が泳がないといつて騒ぐようなものである。今の日本の映画界の通弊は何でも監督監督と騒ぎまわることである。監督は一本の映画に関するかぎり、ありとあらゆる責任と義務を背負わされる。そしてそのかわりにほんのわずかな権限を。
 監督の実際は、会社の方針、検閲制度、経済的制御、機械的不備、スターの精神異常、こういつた種類のこわい鬼どもの昼寝のすきをねらつてささやかなる切紙細工をして遊んでいる子供にも似たはかない存在である。
 しかるに不幸にしていつたん作品ができあがつて世に現われるやいなや、この切紙細工のぼつちやんは突然防弾衣のごとく雨と降りくる攻撃の矢面に立たされる。そしてたちまちのうちにあわれはかなくのびてしまう。たとえば俳優の演技にしてもそれ自身独立した評価をくだされるというようなことは近ごろはほとんどないことである。うまいもまずいも監督の指揮いかんにあるというふうにみるのが通なるものの批評の仕方であるが、監督は神様ではない。へたな俳優はだれが監督してもへた以外には出ないのである。精々まずい芝居の部分を鋏で切り取るくらいの芸当しか監督にはできない。しかしそんなことはだれにでもできることである。要するにへたな俳優を使つてうまい芝居をさせるというのは人間にはできない相談である。うそだと思つたらまずい俳優を外国へ輸送してルビッチにでもスターンバーグにでも使わせてみるがいい。要するに監督ばかりを攻めたところで映画はおもしろくはならないのである。

 次にもつとどしどし新人が現われなければ映画はおもしろくならない。我々もこの世界にはいつてきたときはしろうとであつたがためにごくわずかながら清新の気を注入するだけの役割は果したかとうぬぼれているが、現在ではもうくろうとになりすぎてしまつた。くろうとになるととかく視野が狭くなつて頭をひねる範囲が限られてくるものである。穂高のどの岩はどう取りついたらいいかというようなことは登山家の間では問題になり得るであろうが、門外漢にとつてはいつこうに興味をひかない問題である。それよりもむしろ信州側から登つたとか飛騨側から登つたとかいう大まかな問題のほうがお
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