指図までするやつもするやつだが、またそれをまに受けて引越すやつのまぬけさかげんときては話にも何にもならない。いつたい現代劇の撮影所が首府の近くになければならぬという理論がどうすれば成り立つのかそれが第一私などにはわからない。外国の例で見てもニューヨークとハリウッドではほとんどアメリカ大陸の胴の幅だけ離れているはずであるが、アメリカの現代劇はいつこうに悪くない。そんなことはどうでもよいが、とにかく批評家が撮影所を移転せしめた記録はだれが何といつても日本が持つているのだからまことに御同慶のいたりである。
 かくのごとく※[#「にんべん+票」、第4水準2−1−84]悍無類の批評家の軍勢が一作いずるとみるやたちまち空をおおうて群りくるありさまはものすごいばかりである。それが思い思いにあるいは目の玉をえぐり、あるいは耳をちぎりあるいはへそを引き裂いて、もはや完膚なしと見るといつせいに引き揚げてさらに他の作に群つて行く状は凄愴とも何とも形容を絶した偉観である。
 したがつて読物のほうは十や二十駄作の連発をやつてもたちまち生命に別条をきたすようなおそれはないが、映画のほうは三本続いて不評をこうむつたら気の毒ながら、もはや脈はないものと相場が決まつている。

 次に純粋の映画脚本作家の不遇による、オリジナル・ストーリーの欠乏ということも一応問題にしなければなるまい。
 北村小松、如月敏、山上伊太郎というような人たちはいずれも過去においては代表的な映画脚本作家であつたが、現在においては申し合わせたように転職あるいはそれに近いことをやつている。映画脚本作家は商売にならないからである。我々の体験からいつても映画脚本を一本書くのは監督を数本試みる労力に匹敵する。しかもむくいられる点は、監督にはるかにおよばないのだからとうていソロバンに合わない。しかもまだかけ出しのどしどし書ける時分にはほとんどただのような安い原稿料でかせがされる。
 資本家が認めて相当の値で買つてくれる時分には作家は精力を消耗してかすみたいになつてしまつている。
 私のごときものが現に相当の報酬を受けているのは、とつくの昔かすになつてしまつていることを彼らが知らないからである。こういうしくみでは才能ある作家をつかまえることも困難だし、育てることは一層不可能である。映画企業家のせつに一考を要する点であろう。

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