映画界手近の問題
伊丹万作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)干《ひ》ぼし
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](『改造』一九三六年八月号)
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だれかが私に映画界の七不思議を選定してみないかといったら、私は即座に四社連盟をあげる。そしてあとの六つはだれか他の人に考えてもらう。
四社連盟というものの不可思議性については以下私が申し述べるところによっておのずと会得されるだろうと思うが、とりあえず私は自分の知っている範囲で四社連盟とはいかなるものかという具体的な説明から始めようと思う。
四社連盟というのは松竹・日活・新興・大都、以上四社が共同利益を目的とする協約を結んだことによって新たに効力を発生した一つの結社をさすのであって、その協約を四社協定(以前の五社協定)という。
四社協定というのは、四社所属の従業員たちから就職に関する多くの自由を合法的に剥奪することを目的とする一種の秘密協約であって、その内容を正確に知っているのは前記四社の主脳部ばかりである。我々はいつとなく聞き伝えたり、あるいはたまたまその効力の発生した場合の実例を観察することによって、ほぼその内容について知っているが、多くの従業員たちは自己の生存権をおびやかすこの協約に関してほとんど無知であり、なかにはその協約の存在を意識しないものさえある。
さて、四社連盟は一つの登録名簿を備える。登録の範囲は前記四社所属の監督、俳優などの過半数であって、いやしくも一技能ある俳優ならば月収四、五十円程度のものまで登録されているというから意外に広範囲にわたっていることがわかる。
そしてこの登録はあくまでも一方的であって事はまったく被登録者の意志と知識の外において行なわれる。
被登録者の意志と知識の外においてなされた登録が、いったん効力を発生するや突如として被登録者の意志と利益を蹂躙してあますところがない。すなわちこの名簿に登録されたが最後、従業員は会社の同意なくして自由に退社する能力がなくなってしまうのである。
たとえ押し切って退社はしても協定加入の残り三社のいずれに対しても入社の希望を持つことができないのだから遊んで食うだけの資産でもないかぎり結局退社はできないことになる。
なぜ他社に対して入社の希望が持てないかというと、たとえば私がいままで日活にいたと仮定する。そしていま私は会社がそれを希望しないのに自由に退社して松竹へ入社しようと試みたとする。この場合松竹は決して私を雇わないであろうし、また実際問題として松竹はたとえ私を雇いたくても雇えないのである。
つまり日活は会社の同意なくして退社したものの名まえを登録名簿から取り消さないでおくことができるし、日活が取り消さないものを松竹で雇い入れることは協定に反するからできないのである。そして協約を破った会社は、その相手会社に対して十万円の違約金を支払う義務がある。松竹が発狂しないかぎり十万円出して私を雇う心配はないからこの場合私に残された道は二つしかない。すなわち四社連盟以外の会社に就職するか、あるいは五年間映画界を隠退するかである。
五年間というのはこれも協定の条文によって定められたところであって、つまり五か年を経過すれば他の会社は私を雇ってもいいことになっているのである。しかし現在の私の身分では五年間(たとえそれが三年であっても同じことである。)の食いつなぎはとうてい不可能である。たとえ塩をなめてその間を食いつなぎ得たとしても、さて今から五年目に、さあ伊丹万作作品でございと売り出しがきくかどうか。
映画界という所は忘れっぽい所である。ここの五年は他の世界の十年、十五年に該当する。私は相当うぬぼれの強い人間であるが五年間作品を出さずにつないで行く自信はない。
すなわち映画界で五年間の休業をしいられることは実際問題として生きながら干《ひ》ぼしにされることと何らえらぶところはないのである。
してみるとここに設けられた五年という期間は単に文書上の体裁をつくろうにすぎないのであって、この規約条項制定の精神をわかりやすくいえば「自由退社をあえてするものにはふたたび立つあたわざる致命傷を与う」という殺風景な文句となるのである。
しかし、我々の場合はまだいい。不幸引退のやむなきに立ちいたっても、明日から氷屋をやるくらいの資本と生活意欲は持っている。
これが、一銭のたくわえもない薄給俳優などの場合はどうなるか。
四社連盟以外の会社へ運動するにしても、わずかに東宝系のP・C・L、およびJ・O、各撮影所、千鳥系のマキノ撮影所くらいしかないが、これはいずれも仕事がやっと緒についたばかりであったり、あるいはやっと緒につこうとしつつあるところであったりして、その収容力はまことに微々たるものである。
それにこれらの各会社でも同業者に対する遠慮から、そういう種類の人たちはなるべく雇い入れない方針をとっているし、万一雇うにしても、うんとたたいて安く雇い得る立場にあるのである。なぜならば「おれたちのほうで雇わなかったら君はもう行く所はないじゃないか」という腹があるから話はともすれば一方的になりやすい。
してみると四社連盟による利益を蒙るものは必ずしも協定加入の各会社ばかりではなく、その余沢は不加入会社にまで及んでいることがわかる。右のような次第で、結局被登録者には退社の自由はほとんど皆無といってもさしつかえない状態になっている。
しかも右の協定は雇傭に関する相互契約の有無にかかわらず適用される。つまり始めからまったく契約のないものでも、あるいは契約満期後のものでも会社が契約の続行を希望した場合にはみな一様に適用されるのである。
一例をあげると私たちは同志相寄って連合映画社なるものを創立し、業いまだ緒につかざるに先だって一敗地にまみれてしまったが、このメンバーの中にはだれ一人として会社との契約に触れる行動をとったものはない。そればかりか、退社後もひっかかりの仕事には全部出勤して、ことごとく従業員としての責任と、社会人としての徳義を全うしたものばかりである。
それにもかかわらず新興キネマは、杉山、毛利、久松の三名を挙げ、右は会社に迷惑をかけた不埓ものであるから、絶対に雇用するなかれという意味の通告を各社に向って送付している。この無根の報道によって前記三名がその将来においてこうむる社会的不利益はおそらく我々の想像を絶するものであろう。
なおこの協定には以上のほか種々なる細目があるらしいが、秘密協定であるから我々には精密なところまではわからない。しかし肝腎の点はあくまでも前述のごとく、従業員から転社の自由を奪い取った点にある。そしてそれは同時に従業員の報酬に対する無言の示威運動でもある。
そもそも映画会社が引抜き防止策としての協定を結んだ例は従来とても再三にとどまらなかったのであるが、いまだかつて現存の四社連盟のごとくに実際的効力を発揮した例はない。
なぜ今回に限ってかかる実例を作り得たかといえば、それは一には各社とも長年にわたる監督・俳優争奪戦に疲労し倦み果てた結果である。元来引抜きという語の持つ概念から考えてもわかるように、この語の原形、すなわち引き抜くという他動詞の主格はいつの場合にも会社であり、俳優や監督は目的にしかすぎない。
引き抜くのは必ず会社が引き抜くのであって、いまだかつて俳優が会社を引き抜いたためしなどはどこの世界にもありはしないのである。
したがって、この問題に関するかぎり、よいもわるいもことごとく引き抜く側の会社の責任であって決して引き抜かれるほうの責任ではない。早い話が、法律はよその畠の大根を引き抜いた人間を処罰するが、決して引き抜かれた大根を罰しない。
もっともこの例は少々じょうだんめいて聞えるかもしれない。なぜならば大根は自分の意志を持たないけれども俳優や監督は自分の意志を持っているから。しかし俳優や監督がどれほど引き抜かれることを熱望していても会社側が手をくださなかったら引抜きという作業は絶対に完成しないものであることを記憶してもらいたい。
反対にたとえ監督や俳優が転社を希望していない場合でも引き抜くほうの側は金力その他の好条件をもって誘うことによって多くの場合その目的を達することができるのである。
要するに事引抜きに関するかぎり、会社側がいかに抗弁しても、アクティヴの立場にあるものは常に会社側であり、俳優監督はどこまでもパッシヴであるという事実はあまりに明白過ぎていまさら議論の余地はない。
したがって引抜きがもしも不徳義であるならば、その罪の少なくとも大部分はアクティヴな立場にある会社側が負うべきであって、決して監督俳優の責任ではない。
ここの理窟が十分にわからないものだから映画ジャーナリストたちはいたずらに会社のプロパガンダにあやつられてともすれば引き抜かれた監督俳優を不徳義、無節操呼ばわりをする。そのくせ引き抜いた主人公である会社側に対しては一言も触れない場合が多いのは我々の常に了解に苦しむところである。
さて、こうはいうものの私は決して引抜きが悪いものだとは思っていない。そればかりか、むしろこれはなくてはいけないくらいに考えているのである。
なぜならば、私には映画産業の最も健康な発展形式は自由競争をほかにしては考えられないからである。
そしてこの一条は私にとって金科玉条であり、いやしくも映画産業に関する私の考え方はことごとく右の定理の上に築かれ発展しているものと認めてもらって何らさしつかえはない。
したがってこの意味からいえば映画の産業統制といい、また映画産業ブロック化の傾向といい、前者は画一主義を予想させる点において、後者は限られた資本系統の独占からくる無数の弊害を伴うであろう危険性においてともに私の最もむしの好かぬ現象である。たとえば映画統制の手始めとして着手された日本映画協会は創立されてもう一年近くにもなるが、いまだかつて同協会が人道的な意味から四社連盟の存在を検討したという話を聞かない。それどころかむしろ彼らの間では話題にさえのぼったことはないであろう。なぜならば四社連盟の張本人たちがことごとく協会の主要な椅子を占めているのだから。
この一事をもってしても我々は日本映画協会などというものから文化的には何らの意味も期待できないことがわかる。ただこのうえはさいわいにして彼らが無能であってこれ以上映画界に害毒を流すことさえなければまことに見つけものだと思ってそれだけで十分消極的に喜んでしかるべきであろうと思う。話が少し横にそれたようだ。
さて、すでに根本において自由競争を最も合理的な発展形式と認める以上、よき技術者の争奪は避くべからざる現象であって別に大騒ぎをするには当らない問題であると私は考える。もっとも会社側からいえば、それでは不安でしようがないというかもしれぬが、そんな不安を除去する方法はいくらでもあるように私には考えられる。
たとえば自分の社の従業員は、常にほんのわずかでも、他の会社よりはよい条件のもとにおいてあるという自信があれば、そんな不安はほとんど解消してしまうに違いない。
なるべく悪い条件で使いたい、しかしよそへはやりたくないというのが今の会社側の考え方である。そんなむしのよい話が世間に通用するものかどうか私は知らない。
いま一つは双方とも契約の期間をせいぜい短くするように心がけるべきである。映画界の情勢は一年もすればすっかり変ってしまう場合が多い。それを考慮しないで長期にわたる契約をするものだからほうぼうで見苦しい契約違反沙汰が持ち上るのである。長期契約はいずれのためにもよくない。
次に会社はもう少し後継者の養成に留意しなければいけない。第一線に立つもののことばかりしか念頭においていないから、ごく少数のものが一時に去ると大きな図体をした会社がたちまち悲鳴をあげて立ち騒ぐのはあまりに大人気ない図ではないか。Aが去った場合にはB、Cが去った場合
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