えてもわかるように、この語の原形、すなわち引き抜くという他動詞の主格はいつの場合にも会社であり、俳優や監督は目的にしかすぎない。
引き抜くのは必ず会社が引き抜くのであって、いまだかつて俳優が会社を引き抜いたためしなどはどこの世界にもありはしないのである。
したがって、この問題に関するかぎり、よいもわるいもことごとく引き抜く側の会社の責任であって決して引き抜かれるほうの責任ではない。早い話が、法律はよその畠の大根を引き抜いた人間を処罰するが、決して引き抜かれた大根を罰しない。
もっともこの例は少々じょうだんめいて聞えるかもしれない。なぜならば大根は自分の意志を持たないけれども俳優や監督は自分の意志を持っているから。しかし俳優や監督がどれほど引き抜かれることを熱望していても会社側が手をくださなかったら引抜きという作業は絶対に完成しないものであることを記憶してもらいたい。
反対にたとえ監督や俳優が転社を希望していない場合でも引き抜くほうの側は金力その他の好条件をもって誘うことによって多くの場合その目的を達することができるのである。
要するに事引抜きに関するかぎり、会社側がいかに抗弁しても、アクティヴの立場にあるものは常に会社側であり、俳優監督はどこまでもパッシヴであるという事実はあまりに明白過ぎていまさら議論の余地はない。
したがって引抜きがもしも不徳義であるならば、その罪の少なくとも大部分はアクティヴな立場にある会社側が負うべきであって、決して監督俳優の責任ではない。
ここの理窟が十分にわからないものだから映画ジャーナリストたちはいたずらに会社のプロパガンダにあやつられてともすれば引き抜かれた監督俳優を不徳義、無節操呼ばわりをする。そのくせ引き抜いた主人公である会社側に対しては一言も触れない場合が多いのは我々の常に了解に苦しむところである。
さて、こうはいうものの私は決して引抜きが悪いものだとは思っていない。そればかりか、むしろこれはなくてはいけないくらいに考えているのである。
なぜならば、私には映画産業の最も健康な発展形式は自由競争をほかにしては考えられないからである。
そしてこの一条は私にとって金科玉条であり、いやしくも映画産業に関する私の考え方はことごとく右の定理の上に築かれ発展しているものと認めてもらって何らさしつかえはない。
したがってこ
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