ずである。というのはテレビと映画の結合を予想することは現在においてはもはや単なる空想とはいいきれないからである。そして、そうなつたあかつき一般の家庭においていながら映画を観賞する風景を想像することは楽しいというよりもむしろ少々そらおそろしい感じをさえ伴う。我々日本人の大部分は家庭という文字の内容に静寂の観念を要求しているようだ。ラジオでその観念はかなり破壊せられたが、このうえさらに映画のような濃厚な娯楽が家庭の静かな時間を攪拌しはじめたら、そのときこそは我々が従来の家庭という言葉の概念を改めなければならぬときかもしれない。しかし特殊の場所において見せるものと家庭の内部において見せるものとでは選択や検閲の標準が違つてくることは当然であるから、その意味では日本の家庭は昔ながらの清浄を保つであろう。何よりも嬉しいことはその時代の病人たちの生活がずつと楽しくなることだ。どうも私は少し早く病気をしすぎたようだ。
そんな時代がきたら映画館は不要になりはしないかという心配は一応もつともだが、しかしその心配はいらない。第一に映画は館で見るのが一番おもしろいものだ。私はあるとき試写室でフェデの「女だけ
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