いと思う。しかし芸術の徒としての私は、芸術鑑賞および価値批判のらち内においては人間の涙というものをいっさい信用しない。
とはいえ映画で人を泣かせることには一応の困難が伴うことは事実である。普通の映画で客が泣くまでに我々が費している手続きと思考は大変なものである。
観客の理解と同情と感激とを要求するに足るだけの条件、すなわち悲劇の展開に必要なあらゆる境遇、あらゆる運命が手落ちなく描かれ、悲劇的なシチュエイションが十分に用意され、さてそのうえで悲劇的な演技が始ってこそ初めて客の涙を要求することができるのであるが、この映画においてはそのようなめんどうな手数をしはらう必要はない。いきなり癩患者(むろん初期)が出てきて抒情的な風景の中で家族と別れる場面などをやってみせれば、それだけで我々は無条件に泣かされてしまう。
なぜならばこの場合においては、癩患者が癩患者であるということだけで泣くにはすでに十分なのであって、それは癩者個々の運命とは必ずしも関係を持たない。したがってかかる場合の観客の涙はその理由を作者側の努力に帰し難い部分が多い。
しかし、映画の癩者を見て泣いた人が現実の癩者を見て泣
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