らぬ。すなわち各々の民族は各々の映画を持たなければならぬ。そしてこのことは徐々にではあるが現に世界の隅々において現実化の方向をたどりつつある課題である。
近くは、我々に最も同化しやすいといわれる朝鮮の人々さえ我々の提供する映画だけではもの足らず、彼ら自身の映画を作り出すために苦悩をつづけているではないか。
かつて映画が言葉を得て自由にしやべり始めたとき、ある人が、映画は言葉を得たことによつてかえつて国際性を失い退化したと嘆じた。何ぞ知らん、国際性を失つたかわりに映画はそのとき始めて確実に民族のふところにかえつたのである。浮浪性を精算して深く民族の土に根を降し始めたのである。これを退歩と見るか進歩と見るかは各人の自由であるが、少なくとも私は映画が名実ともに芸術としての第一歩を踏み出したのは実にこのときからであると考えている。
今にして思えばアメリカ映画が最もその国際性を発揮したのはやはり無声映画の末期であり、ちよびひげをつけ、山高帽をかぶり、だぶだぶのズボンをはいた道化男が悲しい微笑を浮べて世界中を駆けまわつたときにとどめを刺すのである。アメリカ映画の黄金時代を象徴するものはこの悲
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