の民族の垣は低く、我が民族の垣は高いのである。
 垣とはすなわち風俗、習慣、言語の隔てを意味する。
 我がたたみに坐し、彼が椅子に倚るのは風俗習慣の差であつて、それがただちに文化の高低を意味するものではない。
 かつて安田靱彦は黄瀬川の陣に相会する頼朝義経の像を画いて三代美術の精粋をうたわれたが、殊に図中頼朝の坐像の美しさは比類がない。また、室町期以降の多くの武将の坐像、あるいは後醍醐天皇の坐像の安定した美しさなど、所詮椅子に腰掛けている人種のうかがい知るべきものではないが、私はこれらの美を解し得ない彼らにむしろ[#「むしろ」は底本では「むろし」]同情を禁じ得ない。
 我々の感じる美、我々を刺戟する芸術的感興は、常にあるがままなる民族の生活、その風俗習慣の中にこそあるのである。
 他民族がもしも我々の映画の中に畳の上の生活を見て醜いというならば見てもらわぬまでである。他民族の意を迎えるために我々の風俗習慣を歪曲した映画を作るがごときことは良心ある芸術家の堪え得べきことではない。
 もちろん現在我々の映画はその表現において、技術において、残念ながら世界一流の域には遠くおよばないものがある
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