。我々は一日たりともそのおよばざるところを追求する努力をおこたつてはならないが、しかしたとえ我々の映画が一流の域に達した暁においても、我々の特殊な風俗・習慣・言語の垣根は決して低くはならないことを銘記すべきである。そしてそのときにあたつて我々映画の進出をはばむ理由が一にかかつてこれらの垣根にあることが明らかにされたならば、もはやそれは天意である。我々はもつて瞑すべきであろう。
私はここで一時アメリカの映画が世界を風靡した事実を想起する。我々はそれをこの眼で見てきた。アメリカの映画業者にとつては、地球の全面積が市場であり、彼らの住む西半球は市場の一部にしかすぎなかつた。このような映画の歴史は人々の頭にあまりにも強烈な印象を焼きつけてしまつた。そのため、人々はともすれば映画に民族性のあることを忘れ、国境を無視して流行することが映画の第一義であるかのごとく錯覚してしまつたのである。
しかし、私をしていわしむれば、これらの事実は、世界がまだ芸術としての生育を遂げ得ない過渡期の変態的現象にすぎなかつたのである。もしも映画が真に芸術であるならば、それは何よりもまず民族固有のものとならなければならぬ。すなわち各々の民族は各々の映画を持たなければならぬ。そしてこのことは徐々にではあるが現に世界の隅々において現実化の方向をたどりつつある課題である。
近くは、我々に最も同化しやすいといわれる朝鮮の人々さえ我々の提供する映画だけではもの足らず、彼ら自身の映画を作り出すために苦悩をつづけているではないか。
かつて映画が言葉を得て自由にしやべり始めたとき、ある人が、映画は言葉を得たことによつてかえつて国際性を失い退化したと嘆じた。何ぞ知らん、国際性を失つたかわりに映画はそのとき始めて確実に民族のふところにかえつたのである。浮浪性を精算して深く民族の土に根を降し始めたのである。これを退歩と見るか進歩と見るかは各人の自由であるが、少なくとも私は映画が名実ともに芸術としての第一歩を踏み出したのは実にこのときからであると考えている。
今にして思えばアメリカ映画が最もその国際性を発揮したのはやはり無声映画の末期であり、ちよびひげをつけ、山高帽をかぶり、だぶだぶのズボンをはいた道化男が悲しい微笑を浮べて世界中を駆けまわつたときにとどめを刺すのである。アメリカ映画の黄金時代を象徴するものはこの悲しい道化であるが、同時にそれは芸術以前の映画の姿をも象徴しているのである。
私がこの小論で述べようと思つたことは、以上でほぼ尽きたわけであるが、この議論をさらに推し進めて行くと、結局映画工作はそれぞれの地理的関係のもとに映画を育成することに重点をおくべしということになりそうである。
しかし、現地の事情について何ら知るところのない私がそこまで筆を駛《はし》らせることは不謹慎であるから、ここではそのような具体策にまでは触れない。
ただ、私がここで何よりも問題としているところは、むしろ思考の出発点についてであり、要するに民族性を離れていかに映画を論じたところで、決して解答は出てこないということさえ警告すれば、それでこの一文の役目はおわつたのである。[#地から2字上げ](『映画評論』昭和十九年三月号)
底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
1961(昭和36)年7月10日初版発行
1982(昭和57)年5月25日3版発行
初出:「映画評論」
1944(昭和19)年3月号
※誤植の確認にあたっては「靜臥後記」(大雅堂、昭和21年12月25日発行)所収の「映畫と民族性」を参照しました。
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
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