聞える場合のほとんど九十パーセントまでは持ちまえの声より調子を張っているためだといっていい。したがって録音部の注文で無反省に俳優に声を張らせるくらい無謀な破壊はない。
 我々はいかなる場合にも機械が人間に奉仕すべきで、人間が機械に服従する理由のないことを信じていてまちがいはない。

○声を張ることを離れてはほとんど表現ということの考えられない舞台芸術の場合には前項の記述はまったく役に立たない。
 たとえどんなにリアルな舞台でももしも我々が映画に対するとまったく同一の態度でこれを見るならば、そこには自然なエロキューションなどは一つもないのに驚くだろう。

○しぐさに関する演技指導の中で、視線の指導くらい重要でかつ効果的なことはあまりない。その証拠に、俳優が役の気持ちに同化した場合には別に注文しなくても視線の行き場所や、その移行する過程が、ぴたりぴたりとつぼにはまって行く。
 ちょうどその裏の場合、たとえ俳優自身はその役のそのときの気持ちを理解していなくても、視線の指導さえ正確緻密に行なわれるならばその結果はあたかも完全なる理解の上に立った演技のごとく見えてくる。
 気持ちの説明が困難な場合(たとえば子役を使う場合など)、もしくは説明が煩雑で、むしろ省略するほうが好ましいような場合には、私は俳優の私に対する信頼にあまえて、理由も何もいわず、ただ機械的に視線の方向と距離とその移行する順序を厳密に指定することがしばしばあった。その結果、彼あるいは彼女たちの演技は正しく各自の考えでそうしているように見えてくるのであった。

○私の経験によると多くの女優は演技よりもなお一層美貌に執着する。
 たとえば彼女たちが昔の既婚婦人に扮する場合、演出者の注意をまたずして、眉を落し歯を染めて出るのは時代劇の常識であるべきはずだが、実際にはこれらの問題で手を焼かせなかった女優は極めて稀である。ドオランで無理やり眉をつぶして出るのはまだいいほうで、なかには平然と眉黒々と澄まして出るのがある。なだめすかして眉を落させると歯が染めてなかったりする。あるいは中には稀にこういうことをいいかげんにすませる演出者があるためにこうなるのではないかとも思う。
 しかし私が言いたいことはほかにある。それは、眉を落しかね[#「かね」に傍点]をつけることによって、美しさが倍加しなかった女優を私はまだ見たことがないということである。
 すなわち女優諸君が真に美貌に執するならば、そしておのれの持つ最も蠱惑《こわく》的な美を発揮したいならば、むしろすすんで眉を落し歯を染めるべきであるということを私は提言したいのである。

○女優は貝のように堅く口をつぐむ。そのわけはもちろん彼女たちが人間の顔をいかなる場合にも口を結んでいるほうが美しいように勘違いしているからだ。
(口を開かなければならないときに無理に閉じているのは必要のないときに口をあけているのと同じようにばかげたものだが――。)
 そこで我々は絶えず彼女たちの唇をこじあけるために、一本の鉄梃《かなてこ》を用意してセットへ向かうわけである。そうでもしないと彼女たちは堅く口を結んだままで驚愕の表情までやってのけようとするからだ。

○演技にある程度以上動きのある場合には、演出者は必ず一度俳優の位置に自分の身を置いて、実地に動いて見るがよい。それは人に見せるためではない。そのおもなる目的は俳優に無理な注文を押しつけることを避けるためである。演技のような微妙な仕事を指導するためには、終始おのれを客観的な位置にばかり据えていたのではいかに熱心に看視していてもどこかに見落しや、俳優に対する理解の行きとどかない点が残ってくるものである。しかもこれは自分で動いてみる以外には避けようのないことであると同時に、動いてさえみれば簡単に避けられることである。
 要するに我々は原則として自分にできない動きを人に強要しないことである。自分には簡単にできると思っていたことが、動いてみると案外やれないことは珍しくない。(この場合の動きの難易は技術的な意味よりもむしろ生理的な意味を多く持っている。)
 自分で動いてみて始めて自分の注文の無理をさとった経験が私には何回となくある。

○俳優の動きにぎごちない感じがつきまとい、何となく見た目に形がよくないようなときは、俳優自身が必ずどこかで肉体的に無理な動きや不自然な重心の据え方をしていながら、しかも自身でそれを発見し修正する能力を欠いている場合にかぎるようであるが、この場合も演出者が客観的にいくら観察していても具体的な原因を突きとめることはかなり困難である。しかし一度俳優の位置に身を置いて自分で動いてみると実にあっけないほど簡単にその原因を剔出《てきしゅつ》することができるものである。

○エロキューションの指導に関しても前二項とほぼ同様のことがいえる。

○演出者が大きな椅子にふんぞりかえっているスナップ写真ほど不思議なものはない。病気でもない演出者がいつ椅子を用いるひまがあるのか、私には容易に理解ができない。
○現場における演技指導はいつ、いかなる手順で行なわるべきか。こんなふうな問題は能率(商品的な意味ばかりでなく)のうえから最も肝要なテーマであるが、我々は慣習としてもこれを自分の身につけていないし、法則としてもそれを教えられていない。いわばまったくでたらめだったのである。多少とも批判の眼を持って我々の仕事場を参観に来る人々に対し、私がいつも汗背の念を禁じ得ないのは我々の仕事があまりにも無秩序で原始的なことであった。
 そしてこんなことは一人や二人の力ではどうにもなることではないが、しかしこのままでたらめを続けて行くわけにも行かない。そこで私は自分の仕事のときだけでも多少の秩序を設けたいと思い、最近の仕事では次のような順序による方法を励行してみた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、その日の撮影プランの説明。(これは実際的な理由から大概省略したが向後はなるべく実行したい。)
一、そのカットの演技の手順の説明。
一、右の説明に沿って俳優を実際に動かせ、しゃべらせてみる。(むろん大略でよろしい。)
一、右の三項の間、演出助手、カメラマン、照明部、録音部、大道具、小道具、移動車の係などそのときの仕事に関係あるものは残らず手を休め、静粛にこれを注視している。
一、次に俳優はいったんその位置を去り、付近の自由なる場所において任意にせりふの暗誦その他練習をする。
一、その間にカメラのすえつけならびに操作準備、照明器具に関する作業、マイクの操作準備、大道具の取りはずし、移動の用意など、必要に応じて、要するにいっさいの荒々しき作業を片づける。
一、右がほぼ終ったころを見はからって俳優を既定の位置に着かせる。本格的な演技指導がそれから始まり、進むにつれて指導は次第に細部におよんで行く。
一、これと並行して、同時に一方では照明の修正、カメラの操作テスト、録音に関する整備、小道具の充足、大道具の修理などが行われる。
一、大体の見当がついたら綜合的テスト。
一、十分に見当がついたら本意気のテスト。
一、シュート。
[#ここで字下げ終わり]

○古くさい芸術家きどりの「気分主義」くらいこっけいで、えてがってで野蛮なものはない。
 我々の仕事は一面には芸術の貌を持っているが、他の一面には純粋に工場労働的な貌をも持っていることを忘れてはならない。
 自分の書斎でひとりお山の大将になっていればいい文士の仕事と我々の仕事とは違う。かびの生えた「気分」などという言葉は蹂躙しても、「時間」を尊重することに我々は光栄を感ずべきだ。
 芸術家もセザンヌくらいの巨人になると、その日課は時計のごとく正確で平凡であった。

○私は自分の周囲にある後進者たちに対し、いまだかつて演出あるいは演技指導について何事をも説いたことがない。そのわけはこんなにも行動の形で見せる以上の教え方はどこにもないにもかかわらず、もしも彼らがそこから必要なことを学び取り得なかったとしたら、それは最も手近にころがっている最上の機会を彼らが取り逃がしたことであり、それを補うに足る方法はもはや一つとして存在しないからである。

○俳優に信頼せられぬ場合、演出者はその力を十分に出せるものではない。
 また演出者を信頼せぬ場合、俳優はその力を十分に出せるものではない。

○「信頼」が飽和的な状態にあるときは、たとえば演出者が黙って出てきて椅子に坐っただけで既にある程度の効果を挙げ得るものだと私は信じている。
 そして私が心の中に描いている理想的な演出、もしくは完成されつくした演技指導の型といったようなものの特色は、著しく静かでほとんど無為に似た形式をとりながら、その実、当事者間には激しい精神の交渉、切磋、琢磨がつづけられ、無言のうちに指導効果が刻々上昇して行くといった形において想像される。
 このことは一見わらうべき精神主義的迷妄のごとくに誤解されるおそれがないでもないが、たとえば我々が実生活における幾多の経験を想い出してみても、我々が真に深い理解に到達したり、新しい真実を発見したりするのは、言葉のある瞬間よりも言葉のない瞬間におけるほうが比較にならぬくらい多くはなかったか。あるいはまた、最もすぐれた説明は、何も説明しないことであるような例が決して少なくない事実に気がつくならば、私の意図している方向が、まんざら荒唐無稽でないことだけはわかるはずである。
 こうはいっても、私はそのために別項で強調した説明技術の重要性に関する主張をいささかでも緩和する気持ちはない。むしろそこを通らずして一躍私の意図する方向に進む方法はないといってもまちがいではない。
 しかしいずれにしてもよき演技指導の最初の出発点は指導者に対する「信頼」であることを銘記すべきである。

○「信頼」の上に立たない演技指導は無効である。
[#地から2字上げ](『映画演出学読本』一九四〇年十二月)



底本:「現代日本思想大系 14 芸術の思想」筑摩書房
   1964(昭和39)年8月15日発行
初出:「映画演出学読本」
   1940(昭和15)年12月
入力:土屋隆
校正:染川隆俊
2008年4月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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