主観的必然性というものはあつても、それは第三者によつては存在が規定されない性質のものであるとすれば、結局カメラ・ポジションの必然性というものは決して批評の対象とはなり得ないものだということがわかる。
カメラ・ポジションの選択はだれの仕事だろう。私は多くの場合、それを監督の仕事にすることが一等便宜だと考えるものである。
もしもカメラマンがあらゆるカットの目的と存在を正しく理解し、常に必要にしてかつ十分なら画面の切り方と、内容の規定する条件の範囲において最も美しい画面構成をやつてくれることが絶対に確実であるならば、私は好んで椅子から立ち上りはしない。
どんなに優秀なカメラマンでも人間である以上、絶対に誤解がないとは保し難い。これは決して不思議なことではない。一般に一つのカットの含むあらゆる意味を監督以上に理解している人はない。
長年の私の経験が、カメラ・ポジションの誤謬を最少限度にとどめる方法は、結局監督自身がルーペをのぞくこと以外にはないということを私に教えた。
ただし、右は主として内容に即したカメラ・ポジションについてであつて、必ずしも美的要求からくる画面の切り方にまでは言
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